戦国最大のミステリー「本能寺の変の真相」がついに明かされる! (2/3ページ)
このほか、光秀の娘が嫁いだ細川家も光秀に味方せず、当初は明智方として動いていた大和の筒井順慶も日和見たを決め込みました」(歴史雑誌ライター)
用意周到な性格で知られる光秀としては意外という他なく、結局、軍勢の絶対的な数の差を見せつけられ、備中から大返しで畿内に舞い戻ってきた秀吉に、山崎で討たれるのだ。
そこで一般的に語られるようになるのが「怨恨説」。
本能寺の変の少し前、光秀は安土城で徳川家康主従の接待饗応を信長に命じられるが、その際の不手際を信長に糾弾され、信長が小姓に命じて、光秀の頭を鉄扇で打たせたことに憤ったなどとする説だ。
また、母を人質に出して丹波八上城主兄弟を降伏させたものの、信長は安土でその兄弟を磔にし、光秀の母を見殺しにしたことを恨みに思ったという説。
このほか、公衆の面前で信長が「キンカ頭(ハゲ頭)め!」と光秀を罵倒。あるときには、信長が光秀を足蹴にしたという話まである。
ところが、この説も弱点や矛盾がある。
「そもそも、光秀が信長を恨んでいたとしたら、信長は、自分を恨む光秀が軍備を整える居城(亀山城)から至近距離の本能寺で、わずかなお供しか伴わず、なぜ逗留したのか。これでは、まるで光秀に"わしへの恨みがあるなら、この機会に討て!"と言っているようなものですから」(前同)
しかも、『信長公記』によると、信長は光秀の働きについて「天下の面目ほどこし候」と、家中で最も高く評価しており、謀叛寸前まで、この主従関係は良好だったと言われている。
一方、昨年の6月、岡山県立博物館などが本能寺の変に関する新史料が見つかったと発表した。それが「四国ルート説に」まつわる新史料(手紙)だ。
もともと四国の長宗我部家と織田家は友好関係にあり、光秀は長宗我部家への取次役となっていた。
ところが、両家の関係は急激に悪化。領地を召し上げるという信長に元親は、「四国はそれがしが切り取った領土。信長卿に与えられたものではない」と反発。
一方の信長も黙ってはいない。本能寺の変が起こる当日(6月2日)、大坂から四国の長宗我部家を討つ織田の大軍が渡航することになっていた。