【チェ・ゲバラ、死の真相】見せしめにされたゲバラの遺体 (2/4ページ)

東京ブレイキングニュース

いまやこの町はゲバラを観光材料として使っているのだ。

 ゲバラゆかりの地を巡るには時間が遅い。翌朝からゲバラゆかりの地を回り始めることにして、まずは投宿した。

ゲバラの遺体がさらし者にされた場所はセニョール・デ・マルタ病院というところにある。ここにある洗濯台こそが、ゲバラの亡骸が一時的に安置された場所である。ここはどのようなところなのか。ゲバラが処刑された直後の様子を資料を参考に、少し長くなるが記してみよう。

 1967年10月9日の夕方、病院の洗濯台にゲバラの遺体が置かれた。すると翌日から、彼の遺体を一目見ようと大勢の人が病院を訪れた。歴史的英雄的として世界中に名が知れ渡った今では信じられないが、彼ら町の人びとは、彼のことを、邪悪な侵略者として見に来ていた。中には大声で、

「私の国の兵士を殺した奴がどんな顔してるのか。それを見に来たんだよ!」

 そう言いながらやってきた女性すらいたという。

 ボリビア軍は10月9日、「ゲバラは24時間前(10月8日)、戦闘中に命を落とした」と発表した。しかしそれは事実とは違っていた。

 真相はこうだ。

 10月8日、渓谷に潜んでいたゲバラの部隊17人はボリビア軍の挟み撃ちに遭い、攻撃される。反撃するも多勢に無勢であった。ボリビア軍との戦闘でゲバラは負傷。捉えられ、8キロ先の村へとヘリで連行された。連れて行かれたのは村にある小学校の校舎。彼はここに監禁され一夜を明かした。そして翌9日の昼、つまり遺体が公開された日の昼頃に銃殺された。

 遺体の公開は処刑される前から決まっていたようだ。というのも、処刑を担当する兵士たちには「頭は打たず、首から下を狙え」という指令が下っていたそうなのだ。公開が決まっていなかったら、そんな指令は下るはずがない。公開が決まっていたからこそ、きれいな状態で、ボリビア軍の残虐さや非道さを諸外国に印象づけないように、細心の注意が払われたということらしい。

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