【皿屋敷伝説】虐げられたことが原因で自ら命を絶ったお菊と現代の自殺問題 (4/7ページ)

心に残る家族葬



■皿屋敷伝説が福岡県の碓井町で生まれ広まった理由


何故、皿屋敷伝説が碓井町に生まれ、流布したのか。碓井町は平安時代から、遠賀川(おんががわ)水運の拠点だった。当時の嘉麻(かま)郡碓井郷は、太宰府の観世音寺(かんぜおんじ)の荘園だった。観世音寺が奈良・東大寺の末寺となった際、1127(大治2)年から、東大寺に年貢を納める必要が生じた。米は碓井郷から遠賀川(おんががわ)を下って芦屋(あしや)津まで運ばれ、そこから海運で難波まで運ばれていた。そのことから、京・大坂(現・大阪)の人々との文化交渉があった場所だった。そして江戸時代に入ってからも、遠賀川水運が廃れることはなかった。嘉麻郡内の藩年貢米は、郡内各地から、飯塚の上三緒(かみみお)まで運ばねばならなかった。当初は馬で運ばれていたが、寛政年間(1789〜1800)から再び、遠賀川水運が見直されることとなった。碓井町八反田に船入場を設け、御蔵に集積された年貢米を川ひらた(川船)に乗せ、遠賀川を下って、黒崎の御蔵元まで届けた。そこから更に沖船に載せ替えられて、大坂まで運ばれたという。

また、そもそも江戸時代に初代福岡藩主となった黒田長政、そしてその父・官兵衛(如水)は筑前土着の武将ではなく、播州出身だった。播州から筑前に彼らが入府した際、家臣はもちろんのこと、多くのお付きの人々、お気に入りの商人なども伴っていたはずである。その際、碓井町に限らず、福岡に多くの、「播州」文化がもたらされ、その中に「皿屋敷伝説」も含まれていたことは想像に難くない。『福岡県地理全誌』(1872/1989)によると、黒田長政一行が1600(慶長5)年に、筑前領主として豊前中津から筑前に向かう途中、嘉麻郡内の上臼井の郷士・臼井次郎左衛門安宣がそれを迎えた。そのお礼として臼井は領地150石を賜ったという。この際、長政一行が「土産話」で、臼井家の家臣や村人たちに「皿屋敷」の詳細を語り伝えたことも大いにあり得るだろう。
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