プロレスラー世界遺産 伝説のチャンピオンから未知なる強豪まで── 「輪島大士」あらためて問われるプロレスラー輪島の是非 (2/3ページ)

週刊実話

それに相撲は技を仕掛けて倒せば終わりだから、プロレスのようにそこからどうするかという稽古はしていない。そのため、どうしても変な間が生まれてしまうんです」(同)

 また、相撲では倒されないための稽古はしても、倒されることを前提とした受け身はさほど重要視されていない。プロレスに転向した輪島が、わずか2年ほどで引退せざるを得なくなったのも、結局のところは試合中の受け身からのダメージが主因であった。
「力道山や天龍も別に相撲の流儀で成功したわけではなく、その本質はアメリカンプロレスでした」(同)

 外見などの雰囲気とは別に、そのベースには本場アメリカで実戦を重ねて体得したプロレス特有のリズムがあった。だからこそ、異なる世界で大成することができたというわけだ。

 だが、輪島の場合は全日本プロレス入団を決めた時点で、すでに38歳と高齢であった。ビッグネームゆえ契約金も相当に高額であったに違いなく、この回収のためにも悠長に修行を積ませる時間はなかった。

★日本デビューの相手は狂虎シン
 '86年4月に入団が発表されると、すぐさま輪島はアメリカに渡り、ドリー・ファンク・ジュニアやザ・デストロイヤー、パット・オコーナー、ネルソン・ロイヤルといった名選手たちの手ほどきを受け、御大ジャイアント馬場がタッグパートナーを務めて米マットでデビュー。馬場が直々に輪島のレスラーとしての成長を確かめたというわけだ。

 そうしてアメリカで7戦をこなした後、一時帰国して日本マットデビュー。入門からわずか7カ月後、地元の石川県七尾総合体育館でのタイガー・ジェット・シン戦であった。

 結果はタックルをジョー樋口レフェリーに誤爆した輪島と、そこから乱闘に引き込んだシンの両者反則。
「鳴り物入りの大物新人だけに、全国放送のデビュー戦ともなれば手頃な相手を当てて勝たせたいところ。それをしなかったのは、当時の輪島に説得力のある勝ち方はできないという馬場の判断があったのでしょう」(プロレスライター)

 ぎこちないながらもスピニング・トーホールドを決め、ローキックやチョップでシンを追い込んだ輪島に対し、テレビ解説の山田隆氏は「及第点」としたものの、プロレスファンやマスコミの反応は芳しくなかった。

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