プロレスラー世界遺産 伝説のチャンピオンから未知なる強豪まで── 「藤田和之」プロレス冬の時代に気を吐いた“野獣” (2/3ページ)

週刊実話



 桜庭の勝利があまりにも劇的であり、また、ケアーがこの試合の前後からステロイド剤の使用過多によりコンディションを崩していたこと、藤田自身もケアー戦での負傷により次戦で敗退したことで、ファンからの印象はやや薄れた感もあったが、関係者に与えたインパクトは絶大だった。

 藤田がいたからこそ、K−1は総合格闘技路線を始めたとの声も聞かれる。
「当時、桜庭の所属していた髙田道場はPRIDEとべったり。その点、猪木事務所所属だった藤田なら、猪木さえ口説けばなんとでもなる。総合格闘技の日本人スターとして、藤田に白羽の矢を立てたというわけです」(スポーツ紙記者)

 つまり、もし藤田の存在がなければ、’01年の猪木祭りから’03年以降の『K−1 Dynamite!!』へと続く大みそかの格闘技戦はなかったかもしれなかったのだ。

★頭ひとつ抜けた驚異の格闘能力
 しかしながら、そうした中で主役となるべき藤田は連続して不運に見舞われる。

 最初は’01年8月に行われたミルコ・クロコップ戦。
「当時の総合においてはレスリングや柔術のグラウンド技術こそが重要と見なされていて、総合初挑戦のキックボクサーであるミルコは単なる当て馬と見なされていた。K−1においても同年のGPでは1回戦敗退の中堅にすぎず、まさかミルコが勝つなどとはK−1側からして思ってもいませんでした」(同)

 だが、藤田を“看板”にしてK−1の総合路線をスタートさせようとの思惑は、あっさりと崩れ去る。
「どこか相手を舐めていたところはあったのでしょう。藤田が単調なタックルを繰り返すうちに、タイミングが合ってしまった」(同)

 終始優勢でいながらミルコの膝一撃で額を割かれた藤田は、TKO負けを宣せられる。

 さらに、同年の大みそか猪木祭りの直前には、練習でアキレス腱を断絶。大みそかと翌年1・4東京ドームのメインの座を棒に振ってしまう。

 ’03年には当時、絶頂期にあったエメリヤーエンコ・ヒョードルに敗戦。ただし、この試合ではパンチでぐらつかせる見せ場をつくっている。そんな日本人選手は藤田以外にはおらず、格闘能力の高さで頭ひとつ抜けていたことは間違いない。
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