神社の御神体であった石を他の石と置き換えた福沢諭吉と門松を蹴った欅坂46 (3/4ページ)

心に残る家族葬

門松は単なる飾り物ではない、来訪神であり、後に祖先崇拝とも習合した、年神(歳神)を迎える際の目印、依代などの意味合いがある。つまり異界と現世との境界でもある(注2)。こうした行為に対し批判があるのも、未だに「異界」への畏敬の念が残っているからではないだろうか。

■余談だが

この放送ではもうひとつ問題が指摘されている。離れた場所にいるメンバーにもうひとりのメンバーが羽子板でマシュマロを打ち、口でキャッチできた数を競うというゲームも行われた。食べ物で遊ぶ、食べ物をおもちゃにすることは、普通の家庭であれば固く禁じられてきた行為である。少し古い世代ならば「お米には7人の神様がいる」と教えられてきた人も多い。これも人知を超えたものへの感謝と畏れの心、畏敬の念の現れである。

■境界を侵犯した福沢と欅坂46

故意であるかどうかはともかく、福沢や欅坂の行為は「異界」との境界を侵犯するものだ。それを憚られることだとする人がいる一方、迷信と一蹴する人もいる。

科学的には天の恵みも地の実りも所詮自然現象であり、物質に過ぎない。そういうことならば、災害や疫病などへの物理的な「恐れ」はあっても、その背後にある何かに対して「畏れ」を抱いたり、感謝する必要はない。このまま科学が発達すれば、現段階では無理でも100年、1000年の果てには完全に自然現象を支配下に置くことは不可能とはいえない。すでにヒトゲノムの解析は終了し、不老不死の実現を公言する学者もいる。

それはどこまでも現世の事象に過ぎず「異界」ではないからだ。「異界」とは決して人間が及ぶことはできない「異なる世界」であり、そのような不合理な存在は科学的世界観においては不必要ということになる。

■「異界」が与える意味とは

現代社会でこのような「異界」は必要だろうか。そのようなものは迷信に過ぎずむしろ否定されるものではないのか。筆者はそうは思わない。先述したように我々は鳥居や墓をぞんざいに扱うことはできない。そうした感性は捨て去ってよいものではない。人間は全能の神ではないし、決して神にはなれない。まさにその事実によって、人間が及ばない聖域は存在する。

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