佐賀県東松浦郡肥前町高串の増田神社に祀られている増田敬太郎を調べてみた (2/6ページ)

心に残る家族葬

熊本県合志郡泗水村(こうしぐんしすいむら、現・菊池市)の富裕な家の長男として生まれた増田は、私塾で漢学や数学、測量術を学んだ後、19歳の時に東京へ遊学し、法律・鉱山学・英語・速記術などの知識を深めた。その後、20歳になった増田は熊本に戻る。阿蘇郡馬見原(まみはら、現・山都町、やまとちょう)の用水路開削(かいさく)工事の技術員として働いた後、合志郡野々島村(現・合志市、こうしし)役場の書記となった。
それから程なくして増田は、数十人の村人を引率し、北海道開拓団団長として、岩見沢を目指した。しかし北海道は想像以上の極寒の地であったことや、荒れた土地の開墾に苦慮したばかりでなく、自身が病に倒れてしまったため、仲間を残し、増田はふるさとに戻ることを決意した。
病が癒えて後、増田は、養蚕業に挑戦する。当時の泗水村では養蚕業は廃れていたが、増田の努力によって見事に復興を遂げた。その成功を元手に、今度は長崎で絹糸の輸出業を始めた。そんな中、増田は「金もうけ」よりも、社会的に弱い立場の人々、貧しい人々にはお金を貸したり、子供たちに筆や墨などを贈ったりするなどの援助を惜しまなかった。しかも道楽者でもあった増田は、村に芝居の劇団を招聘したり、自ら人形芝居の稽古を行ったりもしていた。そうしたことから、今度は増田が経済的に困窮してしまうほどだった。
そこで家督を弟に譲り、25歳の夏に、佐賀県の巡査採用試験を受験する。合格した増田は、今で言う警察学校に当たる巡査教習所に入所する。本来3ヶ月ほどかかる教育課程をわずか10日で修了した増田は、7月17日に巡査に任命され、その2日後に、唐津に配属されることになった。
ちょうど高串村では、コレラが大流行していた。村の巡査が県警本部に救援を求めてきた。学業の優秀さ、そして冒険心に富んだそれまでの人生を勘案され、増田は高串村を救うように命じられた。増田は任務を引き受け、交通機関が何もなかった当時、山道を伝い歩いた2日後、高串村に到着した。その後増田は、たった3日の勤務の後、殉職したのである。

■増田の死とともにコレラは収束した

不思議なことに村を恐怖に陥れたコレラは、増田の死と呼応するように収束した。それは幸運な偶然だった。

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