佐賀県東松浦郡肥前町高串の増田神社に祀られている増田敬太郎を調べてみた (4/6ページ)

心に残る家族葬



感動した横尾警部補は、佐賀県警の関係者にそれを伝えると、県警本部は増田の業績を、警察官の精神鼓舞のための資料にしようと考え、『嗚呼警神増田巡査−増田神社の由来』と銘打った小冊子を作成し、佐賀県下の警察官に配布した。それまでの増田の死の「取り扱い」は、殉職者の慣例通り警察葬が執り行われ、彼の故郷の泗水村に石碑が建てられたりしてはいたものの、それ以後は「忘れられた」存在だった。しかし横尾警部補の増田神社来訪を契機に、多彩な形で「官」「民」による、増田の顕彰活動が行われるようになっていった。

昭和10(1935)年には、第三の鳥居が奉納され、扁額には「巡査大明神」としたためられた。そしてその2年後には、秋葉神社と合祀され、新生「増田神社」が誕生することとなった。

■増田敬太郎を取り扱った劇や浪曲、紙芝居、絵葉書などが登場した

その間、増田の偉業が新聞や雑誌に取り上げられていたのはもちろんのこと、警察関係者がシナリオを書いた「増田巡査劇」が佐賀県内で巡回公演されるばかりではなく、浪曲や紙芝居、絵葉書などのモチーフになって宣伝され続けた。

その結果、増田神社は、流行病(はやりやまい)に霊験あらたかという、市井の素朴な「守り神」的な存在から、命がけで職務を全うした「警察官の鏡」、更には「日本精神の権化」として、日本全国の警察関係者の崇敬すら集めていくようになった。



■自らの命を捧げて人に尽くした存在の代表格となった増田敬太郎

殊に増田が日本唯一の「警神」として「巡査大明神」に祭り上げられたことは、国威掲揚のために、陸軍大将の乃木希典(1849〜1912)を祀った乃木神社(1923年創建、東京都港区赤坂)や、軍神第一号とされた広瀬武夫中佐(1868〜1904)の広瀬神社(1935年創建、大分県竹田市)、元帥海軍大将の東郷平八郎(1848〜1934)の東郷神社(1940年創建、東京都渋谷区神宮前)などに見る、「国のために自らを捧げた」軍人たちの「宗教モニュメント」化が積極的に行われた、当時の情勢と大きな関わりがあったと考えられる。
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