江戸時代に政治的敗北を喫した仏教 当時の庶民はどう捉えていたか (3/4ページ)

心に残る家族葬



豪奢な大寺院や、きらびやかな仏像、深遠な哲学はあくまで貴族の仏教であり、武家の仏教であった。それらは一定の知識層に向けられたものである。現代人がその価値を理解し、観賞するのは一定の教養を得ることができているからこそだ。しかし、目に一丁字もない民草に芸術や学問などわかるはずもない。

彼らはひたすら「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」を唱えた。「南無」が阿弥陀仏に帰依するという意味であるとか、「阿弥陀」とはサンスクリット語で云々など知るはずもなく、菩提を弔うために、己の救いのために、ひたすら無心に唱えたのである。字の読めない民衆のために般若心経の文言を絵で表した「絵心経」もこの時代のものであった。江戸期は仏教が庶民の生活に浸透・密着した時代であった。

■民衆にとって多種多様な役割を果たした仏教

仏教学者・末木文美士は仏教が庶民に浸透したことで日常の様々な役割を果たしたと指摘している。末木によると、寺院は役場、文化センター、よろず相談所でもあり、社会的弱者である女性のためのシェルター(駆け込み寺=縁切寺)もあった。さらに娯楽の場でもあり、「伊勢参り」や「お蔭参り」など、宗教行事は民衆にとってのレクリエーションでもあった。お遍路などの巡礼が民衆に広まったのもこの時代である。江戸期の仏教(宗教)は民衆と共に歩いてきたのである。

■確かに仏教が葬式仏教に成り下がったのは江戸時代ではあったが…

歴史とは基本的には著名な人物や大事件、特筆されるべき文化・文明によって構成される。その視点からは確かに、江戸仏教が悪い意味での葬式仏教として堕落したものとされるのは仕方のないことだろう。

一方で、江戸時代に仏教を担った主役が、学者や高僧ではなく、名も無き庶民だったとすれば、江戸仏教が仏教史において見劣りするのは当然である。歴史は語らずも仏の教えは民の隅々にまで行き渡っていたのだ。柳は言う「貴族の仏教よりも、武家の仏教よりも、町民や農民の仏教こそ讃えていいではないか」。

■江戸時代、仏教は民衆の救いとなっていた

民草の隅々にまで仏の教えが染み渡った江戸時代こそ篤心の時代だったといえる。
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