江戸時代に政治的敗北を喫した仏教 当時の庶民はどう捉えていたか (1/4ページ)

心に残る家族葬

江戸時代に政治的敗北を喫した仏教 当時の庶民はどう捉えていたか

江戸・徳川時代の仏教が語られることは多くない。仏教伝来、崇仏論争、大仏建立、密教伝来、鎌倉新仏教といったセンセーショナルな出来事が江戸時代にはなく、また、江戸仏教を「葬式仏教」に堕落したとみる向きもある。今日、仏教といえば葬式であろう。いわゆる「葬式仏教」の原型は鎌倉時代にまで遡ることができるが、檀家制度など現代に直結する葬式仏教の形式は江戸時代に確立された。それ故、江戸仏教は本来の仏教でないと批判されることが多い。しかしそれは歴史を鳥瞰するにおいて、ある視点が抜けているともいえる。それは「庶民・民衆」からの視点である。

■仏教の政治的敗北に至るまでの経緯

「平家物語」には白河法皇(1053~1129)が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話がある。山法師とは比叡山延暦寺のいわゆる「僧兵」のことである。僧兵が神輿を担ぎ上げ実力行使に訴える「強訴」は、朝廷といえど容易に抗しうるものではなく、神意を楯に好き放題暴れ回っていた。比叡山を中心とした仏教勢力は軍事力を備えた政治集団であった。

■織田信長と豊臣秀吉によって弱体化した仏教

この仏教勢力に業を煮やした織田信長(1534~82)は比叡山焼き討ちを敢行し(1571年)、本願寺の一向一揆を鎮めた(1580年)。
次いで豊臣秀吉(1537~98)が政権に寄り添わない日蓮宗 不受不施派を迫害し、徳川家康(1543~1616)は依然として巨大な勢力を持つ本願寺を東西に分裂させ弱体化に成功した。


■徳川家康によっていよいよ政治的敗北を喫した

家康が開いた徳川幕府は仏教の骨抜きに取りかかる。本末制度は、各宗派を本山~末寺などに系列化させ、本山に人事権などの権力を与えた。これによって本山は各宗派を支配し、その本山を幕府が支配するという体制が確立。さらに、寺院と檀家の関係を固定化する「寺請制度」を導入する。強固となった寺院と檀家の関係は戸籍としても機能し、幕府の民衆統制の根幹となる。この関係から寺院による葬式が慣習化することとなり、仏教側の大きな収入源となった。つまり仏教は幕府の支配というムチで叩かれ、民衆への支配権というアメを与えられ、骨抜きにされたのである。

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