たった一人で織田軍を足止めした歴戦の武者・笠井肥後守高利の壮絶な最期【後編】 (6/6ページ)

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落合芳幾『太平記英雄傳 大谷刑部少輔吉隆(吉継)』江戸後期

武田家の滅亡後、高利の子である笠井孫右衛門慶秀(かさい まごゑもんよしひで)大谷刑部少輔吉継(おおたに ぎょうぶのしょうゆうよしつぐ)に仕えます。

その頃、刑部と親交のあった井伊兵部少輔直政(いい ひょうぶのしょうゆうなおまさ)が「高利の息子が刑部の下に仕えている」と知って、戦場から人づてで入手した槍を手土産に、孫右衛門に面会を申しこみます。

「……そなたのお父上は、武者なれば斯(か)くありたしと誰もが思う立派な最期にござった……」

井伊直政・騎馬像。赤く染めた鎧の色と、特徴的な兜から「赤鬼」と恐れられた。

後に武田軍から引き継いだ「赤備え」部隊を率いて徳川家康の天下取りに活躍する「赤鬼」兵部は、高利の遺児を自分の配下に招き入れることで武田遺臣の結束を固めたい意図もあったのか、熱心に孫右衛門を説得。

話を聞いた刑部も快く送り出してくれたので、晴れて孫右衛門は兵部に仕えて懸命に奉公し、その家運を今日まで伝えていくのでした。

人は一代、名は末代……限りある命を大義に奉げた武士たちの生き方は、数百年の時を越えて、私たちの胸に熱い思いを訴えかけてくるようです。

【完】

※参考文献:
笠井重治『笠井家哀悼録』昭和十1935年11月
皆川登一郎『長篠軍記』大正二1913年9月
長篠城趾史跡保存館『長篠合戦余話』昭和四十四1969年
高坂弾正 他『甲陽軍鑑』明治二十五1892年

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