森鷗外にとって「サードプレイス」だった小倉時代の墓所探訪 (2/6ページ)

心に残る家族葬



■小倉に赴任後、九州の名所を訪ね歩いた森鴎外

小倉に着任した明治32(1899)年6月16日から、小倉を離れ、帰京した35(1902)年3月28日までの日々を記した『小倉日記』によると、鷗外は、軍務の合間を縫って、雑誌寄稿6誌、新聞寄稿6誌、講演会7回を行い、4冊の本を著した。

こうした「活動」は、実力ある「有名人」であれば、今日でも珍しいことではないかも知れない。しかし鷗外はそれらに加え、太宰府(現・太宰府市)では太宰府天満宮や観世音寺(かんぜおんじ)、都府楼(とふろう、大宰府政庁)跡探訪、近江土山(現・滋賀県甲賀市)の常明寺を訪れた際は、祖父・森白仙の墓を発見したり、大分では宇佐(うさ)八幡、そして小倉の広寿山福聚寺(ふくじゅじ、現・北九州市小倉北区)参詣など、主に「九州」ゆかりの人物や「場所」をあちこちと訪ね歩いている。それは着任当時の鷗外が、福岡日日新聞の記者に、「九州、特に筑豊は古来歴史上の事績に富むと聞いている。今回任地に来て、これを探求すれば、文学上の材料を得るだろうと楽しみにしている」と語ったことを「実践」していたのだろう。

■人との出会いも大事にした森鴎外

しかも鷗外の場合、「歴史探訪」ばかりではなかった。ドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツ博士(1849〜1913)、小倉の教育者、杉山貞(1843〜1913)、筑豊炭田の炭鉱王・貝島太助(かいじまたすけ、1845〜1916)、機械式計算機を発明した豊前(ぶぜん、現・福岡県豊前市)の青年・矢頭(やず)良一(1878〜1908)、豊後(現・大分県中津市)の儒医で漢詩人の戸早春邨(とはやしゅんそん、1837〜1906)、幸田露伴の兄で探検家の郡司成忠(1860〜1924)など、年齢や職業や立場が異なる多彩な人々と会い、それを「養分」としていたのだ。
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