森鷗外にとって「サードプレイス」だった小倉時代の墓所探訪 (4/6ページ)

心に残る家族葬



■貝原益軒(江戸期の本草学者・儒者、1630〜1714)の墓(現・福岡県福岡市中央区)
■熊本・宗岳寺の井澤蟠龍(江戸中期の国学者・武術家、1668〜1731)の墓(現・熊本県熊本市)
■加藤清正(戦国武将、1562〜1611)の墓(現・熊本県熊本市)
■高山彦九郎(江戸期の尊王思想家、1743〜1793)の墓(現・福岡県久留米市)
■大分・日田で江戸時代の儒学者・廣瀬淡窓(1782〜1856)一門の調査の後、その門人で、後に専念寺の住職となった平野五岳(1811〜1893)の墓(現・大分県日田市)
■亀井南冥(儒学者で医師、1743〜1814)の墓(現・福岡県福岡市中央区)
■佐賀・唐津の近松寺で近松門左衛門(1653〜1724)の墓(現・佐賀県唐津市)
■下関・赤間神社で平家一門の墓、「七盛塚」(現・山口県下関市)



■訪れた墓所について詳細に記録していた森鴎外の心の内とは

訪れた墓所の数や鷗外の熱心な記録のさまを勘案すると、必ずしも旅の「偶然」とは言えないだろう。

それは、著名人の墓所を訪れることで、鷗外が置かれていた「左遷」の立場から、「中央」に復帰することを祈念し、捲土重来を誓ったのではないかとも考えられるが、それよりも、彼自身の「見知らぬ場所」に対する純粋な興味や好奇心に加え、墓に葬られた先人たちの人生を「医者」の冷徹な理性で記録の後、分析し、「文学者」の情動でそれを受け止め、あれこれと自由に、その人物たちの人生に思いを巡らせ、自身の心の奥深くに埋め込んでいたのだと考えられる。

■森鴎外にとって探訪はサードプレイスだったのかもしれない

こうした鷗外の小倉時代は、彼の作家人生の「充電期」であったと、後世の第三者が客観的に眺めれば、そう結論づけることは容易だが、当の鷗外自身にとっては、日々、思い悩むところがあったはずである。だからこそ、忙しい軍務の合間を縫って、あちこちを訪れ、多くの人々と会い、新たな勉強を始め、自らも誰かに教えていたのだ。こうした態度は、現代の「フラリーマン」たちと、少しも異なることはない。
「森鷗外にとって「サードプレイス」だった小倉時代の墓所探訪」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る