森鷗外にとって「サードプレイス」だった小倉時代の墓所探訪 (1/6ページ)

心に残る家族葬

森鷗外にとって「サードプレイス」だった小倉時代の墓所探訪

今年4月から施行された「働き方改革を推進するための関係法律の整備に関する法律(働き方改革関連法)」を受け、残業を規制する企業が増えてきた。しかしその影響から、定時に家に帰っても「居場所がない」「育児や家事を手伝わなければいけない」ということで、あえて街を数時間、フラフラ歩き回った後に帰宅する「フラリーマン」が顕在化しているという。

■左遷?栄転?小倉に赴任を命じられた森鴎外

自分の「居場所」がないことから辛い思いをしたのは、現代のサラリーマンに始まったことではない。例えば、明治〜大正期において数多くの翻訳・小説・詩・戯曲・評論をなし、陸軍軍医でもあった、日本を代表する文学者・森鷗外(1862〜1922)もそうだった。明治32(1899)年6月、作家活動と並行して軍医としてのキャリアも重ねていた、37歳の働き盛りであった鷗外は、「左遷」か「栄転」か、いずれにせよ、自身にとっては思いがけない形で、福岡県の小倉(こくら)市(現・北九州市小倉北区)への赴任を命ぜられた。

■小倉赴任を命じられるまでの森鴎外のキャリア

石見國(現・島根県)津和野(つわの)で生まれた鷗外だが、11歳の時からずっと帝都・東京で暮らし、東京大学医学部卒業後の22歳から4年間、ドイツに留学するなど、当時の最先端の文化・文明の中に在った「洗練された都会人」かつ、日本の「中心」において、日本という国を支えている自負を有していた「エリート」だった。

それゆえ鷗外にとっては、小倉は、江戸期は小倉藩の城下町だったが、明治31(1898)年に陸軍の第12師団が置かれ、「軍都」としての体裁を整えつつあった「場所」だったとはいえ、「僻地」に「飛ばされた」感は大きかったことだろう。当初は鷗外にとって、「決して得意なる境界には無之(これなく)」、「人の好まぬ処(ところ)にありてする奉公が真の奉公なり」と決して「乗り気」「意気揚々」ではなかったものの、およそ3年の時を経る中で「心身共に健(すこやか)」となり、「少シモ退屈ト云(いう)コトヲ知ラズ」と思うほど、充実した時を過ごしたのである。果たして森鷗外は小倉で、何をしていたのだろうか。

「森鷗外にとって「サードプレイス」だった小倉時代の墓所探訪」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る

人気キーワード一覧