身代わり伝説は本当か?今も眠る源義経の首級と胴体の「謎」を紹介【下】 (3/6ページ)

Japaaan

「平家討伐にあれだけ奇想天外な活躍をした(とされる)義経公なら、そのくらいの事はやりかねないorやってのけて欲しい」といった期待感や願望、また「こんな所で死なないで欲しい」という「判官贔屓(はんがんびいき)」も相まって、そうした伝承が各地で生まれたのでしょう。

もしこれが事実であったとすれば、高次が「義経公(実は弟・行信)」の胴体を引き取ってわざわざ遠い自分の領地まで運んだ=葬った理由に納得が行きます。

また、胴塚の石碑には義経公の名前と自害した日付に加えて「大願成就」と刻まれていますが、これは何の願いが成就したのか……もしかしたら、行信が「無事に義経公を逃がしおおせた」ことを意味しているのかも知れません。

御家人みんなが「義経公」の首級に涙……その理由は?

また、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡(あづまかがみ)』の記述にも不可解な点があります。

義経公が自害したのは文治五1189年閏4月30日、その首級が鎌倉・腰越に届けられたのは同年6月13日……いくら平泉が遠いと言っても、鎌倉までの道のりに1ヶ月以上もかかるのは、いくら何でも遅すぎです。

現代の太陽暦で言えばおよそ6~8月という暑い盛りでもあり、これではいくら酒(アルコール)に漬けて保存を図ったとは言え、鎌倉に着くころには首級も腐敗してボロボロになってしまうでしょう(まして当時の酒は、現代ほどアルコール純度が高くありませんでした)。

首実検に臨んだ和田義盛(わだの よしもり)や梶原景時(かじわらの かげとき)らは悪臭に顔を顰(しか)めながら、見る影もなくなった「義経公」の首級を検分したことでしょう。

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