義理としがらみで命を落とした戦国武将を祀る博多の吉塚地蔵を調べてみた (1/6ページ)

心に残る家族葬

義理としがらみで命を落とした戦国武将を祀る博多の吉塚地蔵を調べてみた

JR九州・鹿児島本線/篠栗線の吉塚(よしづか)駅東口を少し歩くと、元禄年間(1688〜1704)に妙蔵尼(生没年不明)によって建てられたという、小さな地蔵堂がある。そのたたずまいに一瞬、「どこにでもある、街中の小さなお地蔵さん」を思い浮かべてしまうのだが、この地蔵堂は、義理を重んじ、結果的に命を落とすことになった悲劇の戦国武将、星野吉實(よしざね、1538〜1586)とその弟・吉兼(よしかね、1551〜1586)の供養のためのものだ。

■吉塚という名前の由来

そもそも「ここ」に地蔵堂があるのは、彼らにとって敵方であった立花統虎(むねとら)こと、後の柳河(やながわ、現・福岡県柳川市)藩初代藩主・立花宗茂(むねしげ、1567〜1643)が「武将の尊崇」として、彼らの首を祀った塚を立てていたことによる。一説には、塚は現在地よりももっと博多湾側にあったとされるが、当初「吉實塚」と呼ばれていた。それが「吉塚」となり、いつしか塚がある一帯までもが「吉塚」と呼ばれるようになったという。

■国のために自らを捧げることが美德されていた

1893(明治26)年には、地蔵堂そばに「星野兄弟戦歿の追悼記念碑」が建てられた。それは「悲劇の武将」を悼むばかりではなく、「日本」という国を欧米列強に居並び、更にそれらを凌駕する近代国家化を目指していた政治家や官僚、そして「時代の空気」から、当時の政府中枢に多くの人材を輩出していた「島津方」への義理を守ったばかりではなく、たとえ不利な状況であってもそれから遁走することなく、国のために自らを捧げることが美徳と考えられ、顕彰されたこともあるだろう。

■吉塚地蔵堂に祀られている星野兄弟の成り立ち


星野兄弟の生家・星野家は、1226(嘉禄2)年から18代に渡り、現在では「八女(やめ)茶」で知られる、現在の福岡県うきは市から八女市星野村一帯を領し、南北朝の頃は肥後(現・熊本県)の菊池氏らと共に、南朝方についていた豪族だった。

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