「鎌倉殿の13人」打倒義時、燃え上がる後鳥羽上皇の野望……第47回放送「ある朝敵、ある演説」予習【前編】 (5/7ページ)

Japaaan

……ギジチョウトウ……義時打頭(義時の頭を打て)……ヨシトキダトウ(義時打倒)の機運を盛り上げ、更には有力御家人たちの切り崩しにかかります。

狙いを定めたのは、京都守護職を務めていた大江親広(おおえ ちかひろ。大江広元の子)と伊賀光季(いが みつすえ)、そして義時の「盟友」である三浦兄弟です。

三浦胤義・大江親広の寝返り

……一院、秀康をめして先胤義がもとに行て、所存之旨をたづねよと仰有ければ、秀康が宿所に胤義をめして、抑々御辺は鎌倉奉公を捨て、公家に奉公、いかやうの御心にて候ぞと尋ければ、胤義が俗姓、人みなしろしめされたる事なれば、今更申に及ばず、故右大将家をこそ重代の主君に頼奉りしが、此君にをくれ奉て、二代の将軍を形見に存ぜしに、是にも別奉て後は、鎌倉に胤義が主とてみるべき人があらばこそ別の所存なし、大底みな是也、次に胤義が当時相具して候女は、故右大将殿の時、一法房と申ものヽ女也。頼家の督ノ殿にめされて若公一人儲ケ奉りしを、若公の禅師公の御謀反に同意しつらんとて、義時に誅せられけり。此故に鎌倉に居住して、つらきものをみじと申間、且は心ならぬ奉公仕也と申けり。秀康、まことにうらみ深き御理也。義時が挙動過分共をろか也。いかにして亡すべきと云ければ、胤義重て申けるは、京・鎌倉に立別て合戦せんずるには、いかにおもふ共叶候まじ。謀を廻してはなどか本意を遂ざるべき。胤義が兄にて候義村は、謀ゴト人にすぐれて一家蔓て候。義時が度々の命に代りて、心安き者に思はれたり。内々胤義、消息を以て義時討てまいらせ給へ。日本國惣御代官は疑ひ有べからずと申物ならば、餘の煩になさずして、やすらかに打べきものにて候と申ければ、うちうなづいて、げにもと可然とて、秀康御所に参て此由奏す……

※『承久記 上(前田本)』

時は流れて承久3年(1221年)5月。後鳥羽上皇は藤原秀康(演:星智也)に命じて、まずは京都に滞在していた三浦胤義(演:岸田タツヤ)の勧誘に当たらせます。

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