冥途の露払い?徳川家康の3日前に亡くなった忠臣・瀬名政勝の生涯をたどる【どうする家康 外伝】 (2/4ページ)

Japaaan

ただ『寛政重脩諸家譜』によると今川家の没落によって放浪したことが書かれているため、やはり武田家中に居づらくなったのかも知れません。

家康に出仕した瀬名政勝(イメージ)

月日は流れて天正9年(1581年)、16歳となった政勝は家康に出仕します。この時父は一緒でないようですが、仕官できない事情(身体を壊していたなど)があったのでしょうか。

政勝の初陣は19歳となった天正12年(1584年)。家康の親衛隊として小牧・長久手の合戦に従軍します。その後、大和国に300石の采地を賜わりました。

更にせっせと奉公を重ね続けた天正18年(1590年)3月11日、政勝は采地のうち190石を駿河国庵原郡瀬名村(静岡市葵区瀬名)に振り替えられます。

瀬名村とある通り、ここは瀬名一族の由来となった土地。政勝にとっても懐かしい土地でした。

しかしそんな感傷にひたる間もない同年7月。家康が豊臣秀吉によって東海五ヶ国(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)から関東への転封を命じられると、政勝の所領も武蔵国入間郡(埼玉県南部中央一帯)に移転したのです。

翌天正19年(1591年)5月17日には所領を保証する御朱印を家康から賜りました。

35歳となった慶長5年(1600年)には天下分け目の関ヶ原合戦に従軍し、後に家康の親衛隊である大番に編入されます。

「冥途の露払い?徳川家康の3日前に亡くなった忠臣・瀬名政勝の生涯をたどる【どうする家康 外伝】」のページです。デイリーニュースオンラインは、瀬名氏明瀬名政勝葛山氏元瀬名信輝瀬名カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る