花山天皇の出家は近いか!? 大河ドラマ「光る君へ」2月25日放送の重要トピックを振り返り (7/8ページ)
貴族から盗賊へ闇落ち…悪へ染まった平安貴族・藤原保輔の悪行の数々
系図集『尊卑分脈』には「右馬助、正五位、右京亮、右兵衛、強盗張本、本朝第一武略、蒙追討宣旨事十五度、後禁獄自害」と記されています。
【意訳】右兵衛など官職を歴任し、正五位の位を持ちながら強盗を働いた。日本一の豪傑で、朝廷より15度も追討の宣旨を受ける。のちに捕らわれ獄中で自害した。
寛和元年(985年)に源雅信(益岡徹)の館・土御門殿で傷害事件を起こし、検非違使の源忠良(ただよし)を逆恨みして射かけるなど、なかなかの悪党です。
その後も永延2年(988年)に藤原景斉(かげただ)や茜是茂(あかね これもち)の館へ強盗に押し入るなど罪状を重ねました。
手を焼いた朝廷は保輔を懸賞首とし、ついには父の藤原致忠(むねただ)を人質として逮捕します。犯人でなく、官憲が人質をとるなんて相当焦っていたんでしょうね。
さすがに危機感を覚えた保輔は出家して北花園寺へ逃げ込みますが、友人の藤原忠延(ただのぶ)がこれを密告します。
そしてかつて部下であった足羽忠信(あすわ ただのぶ)によって捕らわれてしまいました。
生き恥をさらすまいと自ら腹をかっさばき、腸を引きずり出した保輔は、その翌日に獄死。これが日本史上初めての切腹と言われています。
話は戻って、散楽一座の座頭・輔保。実在の保輔はまだ生きますが、彼はどんな最期を遂げるのでしょうか。