田中角栄 日本が酔いしれた親分力(1)40までにやるだけやって死にたい!

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田中角栄 日本が酔いしれた親分力(1)40までにやるだけやって死にたい!

 様々な問題を抱え、混迷の事態に直面している現在の日本。この状況を打破する強いリーダーシップを求めるかのように、今再び昭和の宰相・田中角栄に注目が集まっている。時代を大きく動かした「男の器」を、長年に亘り取材を重ねたジャーナリストが浮き彫りにしていく!

 リーマン・ショックをはじめ、日本に危機が訪れる度に、「もし角さんがいたら、どのような大胆な政策を打ち出すだろうか」という田中角栄待望論が強まる。東日本大震災に続き、今回、熊本大地震にも見舞われ、いっそう田中角栄待望論が出てきた。

 不思議なことに、「吉田茂が生きていたら」とか、「岸信介が生きていたら」との声は起こらない。吉田も、岸も、戦後総理大臣の内ではナンバー1か2かと評価は高い。むしろ、田中角栄より、総理としての評価は高い。にもかかわらず、危機に際しては、田中角栄待望論が出てくるのである。

 なぜか。田中角栄なら、それまでの政策の延長線でなく、大胆な政策を打ち出し、日本をガラリと変えてくれるのではないか。そう思わせるからである。

 実は、吉田も岸も、あるいは佐藤栄作も、池田勇人も、田中角栄のライバルで「角福戦争」を争った福田赳夫も、官僚出身の総理大臣である。

 田中角栄が総理大臣になった時、「今太閤」ともてはやされ、支持率が高かったのも、そのような期待があったからである。

 田中角栄は、1918年(大正7年)5月4日、新潟県刈羽郡二田村(現・西山町)に生まれた。田中家は、農村にはめずらしく農業が本業ではなく、父親の角次は、牛馬商を営んでいた。いわゆる馬喰であった。

 田中角栄は、地元の二田尋常小学校を卒業し、34年(昭和9年)3月27日、柏崎駅から上野に向かった。

 田中は、19歳で会社を起こす。37年(昭和12年)3月、神田錦町3丁目の角にある鉄筋コンクリート5階建てのアパートの1室を借り、そこを事務所とした。角栄の栄の字をとり「共栄建築事務所」という看板を掲げた。田中は廊下に出て、何度も看板を見ながら、喜びに顔を火照らせた。小なりと言えども自分の城を持てたのである。

 田中は、周りの友人たちに常々言っていた。

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