69年(昭和44年)12月、田中が幹事長として采配を振る第32回衆議院総選挙が公示された。
それから間もない夜、代議士の1人から、赤坂の佐藤昭の自宅に電話がかかってきた。その代議士はあわてていた。
「資金不足で、当落が危ないんです。今日の11時の夜行列車に、使いの者を乗せます。どうか援助してください」
時計は、夜の10時になろうとしていた。早寝早起きの田中は、すでに床に入っているにちがいない。起こしては悪い。
田中が次の総理総裁の椅子を狙い始めた頃から、資金援助を求めてくる政治家たちがひときわ多くなった。今回の選挙では、さらにその数が増えて、昭の自宅に電話がくることも多々あった。
昭は、資金援助を求めてきた代議士に言った。
「わかりました。お渡ししますので、事務所までご足労下さい」
いくら田中が寝ている時間とはいえ、金を渡さなければ、田中の沽券にもかかわる。
〈勝手に金を渡して、田中が怒るようであれば、私が1年分の給与をもらわなければいいのだから〉
昭の肚は据わっていた。
田中がだいたいどれほどの金を渡すか、傍でいつも見てきた。田中はいつも金額を公平にしようとしていたが、個々の代議士によって状況はかなり違うので、そこも加味しなくてはならない。
昭は翌朝早く、砂防会館の事務所に出かけた。
金庫から金を出すと、その代議士の使いの人に手渡し、こう言った。
「このお金は、お返しいただかなくても結構ですよ。どうぞ、頑張って当選してきて下さい」
政治家たちは、いくら言葉で「貸して下さい」と頼んでも、実際に金を返す者はほとんどいない。貸してくださいということは、「ください」という意味だった。額も、後に金権政治と言われるほどの高額ではない。それ故、相手に負担に思わせないために、初めからそう言っておいたのである。
朝、田中は砂防会館の事務所に入ってくるや、昭に訊いた。
「今朝あいつが来たろう」
「ええ、ちゃんと渡しておきましたよ」
「そうか、わかった」
それ以上、いくら渡したか問い質しもしなかった。