狩野永徳・長谷川等伯と並び称される江戸初期の絵師・海北友松の生涯を紹介するシリーズの3回目。
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海北友松(かいほうゆうしょう)は、近江浅井家で重臣を勤めた武家海北家の出自だったが主家とともに滅亡。友松は、画家として活動する傍ら生涯にわたり、その再興を目指し、様々な人々と交流を行った。
【その3】では、親友・斎藤内蔵助利三の遺骸を奪還した友松と、その後についてお話ししよう。
1582(天正10)年6月2日、友松の親友・斎藤利三の身に一大転機が訪れた。主君明智光秀が本能寺に織田信長を急襲し、滅ぼした本能寺の変が勃発したのだ。
信長を亡き者にした光秀は京都を抑えるなど早急に権力構築を試みた。しかし、豊臣秀吉の中国大返しや盟友であった細川幽斎(ほそかわゆうさい)・筒井順慶(つついじゅんけい)らの大名を味方にできず、同年6月12日の山崎の戦いで秀吉に敗れる。