盲目の少女を操作して猫を探すゲーム『Beyond Eyes』 (4/5ページ)
しかし、「文化のほうれん草」(ゲームのほうれん草も含む)の愛食家と公言する自分は、(昔のボスで雑誌編集長のマイケル・キンズリーさんの言葉を借りれば)そのほうれん草がチョコレートアイス味であった方がずっといいと考えます。例えば『Journey』とか『Popo & Yo』、『The Talos Principle』とか『dys4ia』とかいった作品の方が良いということです。
しかしその一方で、コイスさんがこう書いていたのは正しくもあります「文明化された映画鑑賞者として私が頑なに信じているのは、私の短い注意力持続時間を無視したような映画作品を見れば、その作品は私の退屈の下に穴を掘り、それがずっと心に残る印象を形作るということです」。
世の中には「文明化されたゲーマー」なんて存在しないと考えるバカもいますが、彼らこそが馬鹿者です。もしもゲームが、私達が考えているゲーム像へとなりつつあるのであれば、そこには『Beyond Eyes』のようなゲームの居場所だってあります。
私達が「難しい」ゲームについて話すときには、大抵は『スペランキー』や『ダークソウル』のような、訓練と繰り返しにより極めることのできるものを指します。しかし、別の種類の「難しい」ゲームも存在するのです。
それはたった一度のプレイ体験のために作られたもので、ゲームをプレイした後に振り返って、初めてその意味を理解できたり、他のプレイヤーと語り合うことで理解できたりするものです。
評論家でデザイナーのラナ・ポランスキーさんは最近のエッセイ「流れに逆らって」(Against Flow)の中で、ゲームのプレイヤーとクリエイターは、プレイヤーをスムーズで洗練されたインタラクションによって瞑想状態に置くことに固着するあまり、ゲームの感情的なポテンシャルを制限しているのではないかと懸念しています。