実はグダグダだった!? 世界史で有名な「百年戦争」は100年も戦っていないってほんと?

百年戦争とは1337~1453年にイギリスとフランスの戦争とされていますが、実際にはこの期間ずっと戦いが続いていたわけではありません。幾度もの休戦協定や和平条約が結ばれているのです。
そもそも、1337年以前も1453年以降もイギリスとフランスは争っていました。どこからどこまでを百年戦争とするかは、見かたや切り口によって違うのです。
■前半はイギリスが優勢
イギリス王、エドワード3世の母は、フランス・カペー家の王女でした。そのため、フランスでカペー朝が断絶し、ヴァロア家のフィリップ6世がヴァロア朝初代のフランス王となったときに、エドワード3世がまさかのフランス王位を主張したのです。断絶しなくても、俺が継げば問題ないでしょ、ということです。
このときのエドワード3世は、イギリス王でありながら、フランスの中にアキテーヌという領地をもっていたため、フランス王の家臣でもあったのです。そして王であるフィリップ6世は、逆らう家臣の領地(アキテーヌ領)没収を宣言し、進軍します。これが百年戦争の始まりとされています。
しかしこのエドワード3世、挑発するだけあって強かったのです。スロイスの海戦や、クレシー、ポワティエの戦いと、勝利を重ねていきます。特にポワティエでの戦いは、エドワード3世の息子であるエドワード黒太子が大いに活躍し、フランス国王ジャン2世(この時フィリップ6世は既に亡くなっていました)を捕縛したのです。
エドワード3世は、当初主張していたフランス王権ではなく、イギリスへフランス西部の支配権を欲しました。ちなみにジャン2世は300万エキュの身代金で解放されています。
風は完全にイギリスに吹いていました。
この間、ペストが流行し、ヨーロッパの3分の1の人々が亡くなりました。ちょこちょこ休戦を挟んではいるとはいえ、そんな大変な状況にもかかわらず戦争は続いていたのです。
■巻き返すフランス
その後、エドワード3世は退位し、赤痢で亡くなってしまった黒太子の息子、リチャード2世がわずか10歳で即位しますが、不人気だったこともあり、いとこのヘンリー4世に玉座を奪われます。このイギリスでの王権争いは、フランスとの和平交渉を早急にまとめるきっかけとなり、1396年には1426年までの全面休戦協定が結ばれることになりました。
しかし、ヘンリー4世が亡くなり息子のヘンリー5世が王になった瞬間、内紛中のフランスへ王権を主張し、あっけなく再開。そしてトロワ条約を締結したのです。簡単に言えば、当時のフランス国王シャルル6世の次に即位するのはヘンリー5世、という内容でした。ところがこの2年後、ヘンリー5世はあっけなく死んでしまい、生まれたばかりの息子、ヘンリー6世へ権利が移ります。指導者不在により、再び混乱に陥ってしまったのです。
この頃に現れたのがオルレアンの乙女ジャンヌ・ダルクです。彼女の活躍により、虫の息だったフランスは持ち直し、シャルル7世はフランス王として戴冠しました。遅れて2年後ヘンリー6世も戴冠したため、フランスには2人の王が存在していました。
シャルル7世はフランス内のイギリス支配地を次々と奪回。最終的にボルドーを占領し、フランス国内にカレーを除いてイギリス領がなくなった時をもって、百年戦争の終結としています。
この時代の戦争は、国には属さない傭兵を多く雇っていました。戦いだけに特化していた彼らは、解雇されると強盗になって領土を退廃させる者もいました。
戦争が続けば、軍事資金難のため税金が増え、領民が反乱を起こし、鎮圧と称して王国軍に殺されてしまうこともありました。
農民だったジャンヌ・ダルクは、平和を願いフランスの勝利を求めた結果、彼女自身は19歳で処刑されてしまいました。
為政者にとっては戦争に意味があったのでしょうが、民衆にとってはただ苦しい時代だったようにも思えるのです。
■まとめ
・百年戦争は、イギリスとフランスの王位争い
・100年間続いたように聞こえるが、途中で何度も休戦!のグダグダな展開だった
・フランスを勝利に導いたジャンヌ・ダルクも、利権がらみで処刑されてしまった
(沼田 有希/ガリレオワークス)