真田丸で話題の……「真田幸村」は存在しないってほんと? (2/2ページ)
ただし歴史的に存在するのは信繁で、真田幸村は架空の人物、と表現すべきでしょう。
■「大くたびれ」でも精力的
真田信繁は、どんな生涯を過ごしたのでしょうか? 徳川家康を苦しめた人物、敵を威圧する赤備(ぞな)えは広く知られていますが、実際はかなりの苦労人。関ヶ原の戦いでは兄と敵対、その後の謹慎生活では「歯も抜け、ヒゲも白くなった」と記すほど気苦労の絶えないひとだったのです。
豊臣側の石田三成 vs 徳川家康が関ヶ原の戦いなのはご存じの通りで、このとき幸村の父・昌幸も健在、本来なら兄・信幸と3人で「真田家」として活動すべき局面でした。ところが父は石田家、兄は徳川家から妻を迎えていたため泣く泣く対立。この状況で父・昌幸は「どっちが負けても真田家は残る」と言ったとか言わないとか… 信繁は徳川の別働隊を足止めしていたため、関ヶ原で兄と対決せずに済みましたが、「本当に家族?」と疑いたくなるような非情な経験をしているのです。
徳川が勝利をおさめ、敵側についた昌幸/信繁は処刑が当然でしたが、兄・信幸の懇願によって一命を取り留め、九度山で謹慎生活を命じられます。それからは暮らしが楽なはずもなく、希望が持てる生活でもありません。父・昌幸が死去すると家臣も離れ、最後は2~3人しか残らなかったと記録されています。信繁はこの生活を「大くたびれ」と表現し、
・最近めっきり老け込み、病気がちになった
・歯も抜け、ひげもほとんど白くなった
と嘆いたことからも、よほど生活が苦しかったことがうかがえます。
とはいえ、この間に2男・3女に恵まれていたのですから、老け込んだのか精力的なのかわかりませんね。その後の戦にも参戦したことからも「元気」なひとだったことは確かなようです。
■まとめ
・真田幸村の本名は信繁。幸村の名は史料に登場しない
・幸村の名で呼ばれるようになったのは、後に出版された小説がきっかけ
・豊臣側についた父と信繁は、謹慎生活を余儀なくされた
・謹慎生活を「大くたびれ」と表現しながら、5人のこどもをもうけた「元気」なひと
(関口 寿/ガリレオワークス)