【五年目の3.11】それぞれの道を踏み出した福島第一原発作業員 (1/2ページ)

東京ブレイキングニュース

【五年目の3.11】それぞれの道を踏み出した福島第一原発作業員
【五年目の3.11】それぞれの道を踏み出した福島第一原発作業員

 既に五年が経ってしまった。2011年、福島第一原発事故が起きてから半年後、僕はある人を介して、福島第一原発で事故に遭い、そして復旧作業に体を張っている人間たちを紹介してもらった。当時の月を思い出せないのだが、いわき駅で作業員たちと待ち合わせをしていると夕方なのに半袖のポロシャツの背中が汗ばんでいたのを思い出す。それを鑑みると八月、ないしは九月くらいだったと思う。その話をまとめたものが拙著『原発アウトロー青春白書』(ミリオン出版)。

 それから何回も作業員たちが拠点にしているいわき市及び、仙台市に通った。最初はなかなか心を開かず(今も開いていないかも知れないが)、口を閉ざしていた彼らだが一緒に酒を飲み、帰りの上野行きの常磐線の中では二日酔いになりながら取材をしていくうちに、段々と赤裸々な話をしてくれるようにになった。

 彼らは原発の街に生まれ、原発で育ち、原発で働き、原発の中で事故にあった。そして友達を津波で喪い、自分の故郷を(町の名前は伏せる)、またある人は祖父をストレスから亡くしている。

 それほどひどい事故状況を聞いていると、僕などはリスク回避の立場から「原発は止めた方がいいのでは」と思い、彼らにぶつけてみるのだがそれでも「俺らはそれで飯食っているんですよ」と意見を異にする。当事者性の大事さを思い知った。 

■当時の作業員には現在連絡が取れない人物も

 しかし、放射線を浴びる事を「食う」と表現していた彼らは「お前、今まで何ミリ(シーベルト)食った?」「俺は○○くらいじゃない?」と言った会話をしているうちに、「もしかしたら俺ら20年後生きられなくなんのかな」とふとつぶやいたりした。僕はまだ若い彼らがそんな心配をする状況に耐えられず、涙ぐんだりもした。

 東京においても、東日本大震災、特に福島第一原発事故の影響は大きかった。メディアは放射線の脅威を伝えた。あるいは「大メディアは伝えていない、自分こそが真実を伝えている」といったジャーナリストも世間では喝采を浴びた。水の買い占めが行われ、ガソリンスタンドは車で長蛇の列が出来ていた。一種のヒステリー状態だった。たった5年しか経っていない2016年現在では考えられなかった状況だ。大事故の際、冷静になる事が大切なのだとつくづく思い知らされた。

「【五年目の3.11】それぞれの道を踏み出した福島第一原発作業員」のページです。デイリーニュースオンラインは、原発アウトロー福島第一原発東日本大震災社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る