【現代医学】切腹は死ぬほど痛い! 切腹後に自分で内臓を取り出す武将がいた → 交感神経が興奮状態なら可能か (5/7ページ)
・中村文荷を呼んで首を打つ
ただ、これだけでは終わらず、さらに五臓六腑を掻き出して(無念腹)、家臣の中村文荷を呼んで首を打つように頼んだとのこと(文荷は後ろにまわって勝家の首をはね、文荷もその太刀で腹を切って死にました)。
・内臓を掻き出した!?
「内臓を投げた」とは書いていません。が「内臓を掻き出して」はおりますね!まさしく、秀吉に対する、どうにもならない無念の怒りが蘇ってくるかのような記述。そしてそれは、勝家が後見人となっていた織田信孝にも、同じような現象が見られるのです。
・勝家以上に激しい信孝の死に様
信孝は、織田信長の三男として永禄元年(1558年)に生誕。次男の信雄より20日早く生まれたのですが、母の身分が低く、報告が遅れたことで三男にされてしまったと伝わってます。
・紀州征伐や荒木村重討伐などで実績
それがなぜ柴田勝家との関係が深いのか。と申しますと、実は勝家は、信孝の烏帽子親でもあるのです。烏帽子親とは、元服の際に行われる儀式で、実質的には後見人という立場を表明するもの。そしてその後、信孝は、紀州征伐や荒木村重討伐などで実績を残していきました。

・信孝は呆気なく自害の命
しかし! これまた勝家と同様に、本能寺の変では光秀討伐で秀吉に遅れを取り、山崎の戦いでは名目上だけの総大将に終始。来たる賤ヶ岳の戦いでは、岐阜城で兄の信雄に囲まれたまま何もできず、秀吉に降伏するしかなかったのです。敗戦後、信孝には呆気なく自害の命が下されました。死に場所は、その昔、源義朝(頼朝のお父ちゃん)が部下に裏切られて殺されたお寺。いわくつきの場所で腹を切った信孝は、そのとき思わぬ行動に出ます。