【現代医学】戦国時代に「DNA鑑定」があったらヤバイかったことが判明 / 殺されるかもしれない! (4/6ページ)

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油売りの商人から身を立てたのは道三ではなく彼の父という説もありますが、なんやかんやで美濃の有力者の長井長弘に仕えることになり、さらに長弘の紹介でその主君・土岐頼芸(よりのり)に仕官しました。

・愛妾の深芳野を道三に贈る
頼芸は当時の美濃を治めていた土岐氏の一族。次男であった頼芸は兄との跡目争いに負けていたのですが、道三はそんな彼をそそのかして1527年にクーデターを起こさせ当主の兄を追放、頼芸を美濃の大名とします。これで道三を気に入ったのでしょう。頼芸は、クーデターの前年に自分の愛妾・深芳野を道三に贈るのですが、これが後の斎藤家悲劇の源となります。

・ついに美濃を支配
深芳野が道三に贈られたのが1526年の12月で、子の長男・義龍が生まれたのが翌年6月10日。あれ? なんか早くない? と思ったアナタ。そうなんです。実は「深芳野の腹には頼芸の子がいた」との説があるのです。他の男の子供なんてたまったもんじゃない。と普通の男性なら躊躇するところでしょうが、そこは道三がマムシと呼ばれる所以。彼はこの話を利用して、ついに美濃を支配するに至ります。戦国の三大梟雄とも言われる彼の手口を見て参りましょう。

・元の主君もいとも簡単に殺害
美濃の大名となった頼芸の元で道三は着実に力をつけていきます。そしてライバルを蹴落とすべく有力家臣であった長井長弘を殺害し、同家を乗っ取りました。権力のためなら元の主君もいとも簡単に殺害。この時代ならでは、さすがとしか言いようがありません。そしてついにクーデターを起こします。

・義龍は頼芸の子
天文11年(1542年)、道三は頼芸を追放し美濃国を手に入れました。むろん頼芸も黙ってはおらず、甥と手を結び、織田の後ろ立てを得て美濃奪還を計りますが、これに失敗。道三は織田と和議を結び、信長に娘を嫁がせます。これが有名な濃姫ですね。さらに道三は美濃平定のため、あろうことか「義龍は頼芸の子」という話を利用するのです。

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