伊達政宗の「灰塚」の謎を、独特な葬儀慣習「両墓制」から推測してみた (2/2ページ)
東北各地の大名同士が再び武力闘争をしないためにも、外様大名ながら徳川幕府との関係も良好な大大名の伊達家が、“圧倒的な権威”として君臨することが必要であった。
だからこそ、伊達家には「死の穢れ」を忌避する側面もある「両墓制」タイプの埋葬を、他の大名に見せつけることが必要だったのではないだろうか。伊達家が仙台の領主となる以前の「灰塚」の例が、筆者の知る限りではないのも、伊達家が政宗の時代に東北きっての強大な大名となったことと、無関係ではないだろう。
そして、この「灰塚」のしきたりが廃止されたのが18世紀初めであることも、この指摘を念頭に置くと納得できる点が多い。つまり幕藩体制の安定により、「“圧倒的な権威”としての伊達家」イメージで、他の藩主の武力闘争を防ぐことが必要な状況ではなくなったことが、「灰塚」廃止の一つの理由と考えたのだがどうだろうか。