人が動く! 人を動かす! 「田中角栄」侠(おとこ)の処世 第22回 (2/2ページ)

週刊実話


 その年、田中は〈旧新潟3区〉内に「中永線」という舗装道路を完成させた。これで3区内の北西側に住む人たちはわざわざ山を迂回して市街地の長岡に出るという困難から解放されることになった。

 さて、エピソードの核心はここにある。当時、中永線竣工式の予算は60万円だったのだが、田中は式そのものの費用を30万円に切り詰めさせ、残った30万円を“有効”に使ってみせた。その30万円で、何と男もの女もの合わせてすべて和服の反物を買ってしまったのだった。道路完成で世話になった建設省の役人と、その奥さんに贈るためであった。当時を知る「越山会」古老は、次のように言っていた。
 「田中先生は反物屋に持って来させた中から、『アイツはこれだ。こっちの方が似合う』などと、自分で色柄を選んで決めていた。反物などは、せっかくもらっても似合わなければありがた味も半減する。実は先生は、役人本人や奥さんの年齢、容姿などを事前に調べ上げていたんだ。人に喜んでもらうということは、ここまで心を配らなければならないのかと思い知らされた。時に先生はまだ30代半ば。この若さでここまで人の心をつかむ術を知り尽くしていたとは驚きだった。以後の先生を見ていても、これは同じだった。人との接し方は何事も誠心誠意、巧まざる形でやっていた」

 かくして、田中は「道路三法」など議員立法を次々に成立させていく中で、「官庁中の官庁」である大蔵省にその存在を認知させる一方、とりわけ建設省に大きな拠点をつくることに成功した。時に、建設省は昭和23年の内務省解体により分離独立して10年にも満たぬ新興官庁だったが、わが国の経済の高度成長の過程で強大化し、予算の差配、分捕りに大きな力を発揮したことで「利権官庁」などともヤユされたものだった。
 やがて、田中がさらに政治力を付けていく中で、田中とこの建設省は表裏一体化した。例えば、陳情を受けた新潟の橋一本の建設、補修の予算でも、田中は直ちに同省局長に電話、その場で予算付けOKを取り付けたものである。ナミの議員が橋の建設、補修の予算を取り付けるには、建設省に“お百度”を踏まなければ実現はしない。これを、田中は「頼むよ」の電話一本で決めていたのだった。「田中は建設省を壟断、手中にしてしまった」の声も出たのだった。

 そうした中で、田中に初入閣の声が掛かった。昭和32年の第2次岸(信介)内閣の郵政大臣、戦後初の30代(39歳)での大臣就任だった。これを機に田中は炭管事件に端を発した「雌伏の時代」からの完全脱却を果たすと同時に、「型破り大臣」として何ともハデな話題を次々に提供することになる。(以下、次号)

小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。
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