田中角栄 日本が酔いしれた親分力(2)事業拡大の中で運命の出会いが (2/2ページ)

アサ芸プラス

 田中は、出征前に仕事を手伝ってもらっていた中西正光を訪ねた。

 中西は、中島飛行機や横河電機、さらに早稲田大学の仕事を請け負っていた。その仕事の一部を、田中にまわしてくれた。

 そのうち、中西の懇意にしていた早稲田大学建築科の加藤清作教授から、中西に話があった。

「飯田橋の坂本組の事務所が空いている。経営者の坂本木平さんが今年の春亡くなり、女所帯だから、家賃はどうとでも折りあいがつく。ぜひ使ってくれ、と言ってきている」

 中西は田中に、その事務所を譲ることにした。

 中西は、田中を連れて、中央線飯田橋駅近くの飯田町2丁目の坂本家に出かけた。応対に出たのは、60歳近い、坂本木平未亡人と、娘のはなであった。田中にとって、はなとの出会いは運命の出会いであった。

 はなは、美人というほどではなかったが、愛嬌のある、慈愛に満ちた女性であった。無口であったが、よく気もつき、田中に優しくしてくれた。

 そのうち、はなが10年前に一度、婿をもらったこともわかってきた。その人との間に子供が1人いたが離婚し、未だ1人だという。はなは、田中より8歳年上で、当時31歳であった。

〈はなさんなら、おれがもらってもいい〉

 田中にはいま1つ、はなと一緒になる得もあった。

 前年の12月8日、太平洋戦争が勃発した。企業整備令や資金調整法が施行され、中小会社は事業運営が困難になっていた。それに見合わない中小会社は、経営を続けるわけにはいかなかった。田中が土建業を営むには、法人を組織し一年間に50万円以上の工事を請け負った実績が、3年間にわたって必要である。その実績により、資本金も決定された。

 もちろん、田中にはその実績はない。田中は、それなりの計算もした。

〈坂本組は、内務省出入りの古い経歴をもった土木建築業者だ。この閉鎖されている坂本組を受け継ぎ、新しい会社を起こそう〉

 坂本家の親戚の者から、2人の結婚に反対の声もあがった。しかし、2人の気持ちは強く固まっていた。

 42年(昭和17年)3月3日、桃の節句の日、田中角栄と坂本はなは、華燭の典を挙げた。

 その夜、いつもは無口なはなが、田中に3つの誓いをさせた。

「決して、出ていけ、と言わないでください」

「私を、足げにしないでください」

「将来、あなたが二重橋を渡る日があったら、私を、必ず同伴してください」

 はなは、そう言うと、田中の眼をまっすぐに見て誓った。

「その3つを守ってくださるなら、それ以外のことについては、どんな辛いことにも耐えて、ついて行きます」

 田中はその3つを誓う約束をした。

 田中は、のちに政治家となり、天皇陛下に会う機会があった時、約束どおり、はなを伴っている。

作家:大下英治

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