田中角栄 日本が酔いしれた親分力(2)事業拡大の中で運命の出会いが (1/2ページ)
田中は、共栄建築事務所の社長として死にもの狂いで働いた。朝は5時か6時に必ず起き、寝床を這い出して出社した。掃除、雑巾がけは、自分でやった。
昼間は、親しくしている理研の各会社をまわり、注文の打ちあわせをした。
夜には、神田錦町3丁目の共栄建築事務所に行き、内職の技師たちや、月給85円で雇った早稲田大学出身の工学士・木村清四郎と一緒に設計を始めた。
田中は、昼間会社回りをする合間を縫って、設計に必要な工事規模や仕様の概略を書いたメモを用意しておき、それを彼らに渡し、設計をしてもらっていた。
もちろん、田中も、彼らと一緒に製図板に向かった。彼らと共に、夜の11時、12時まで図面を引いた。さらに、強度計算から、工事仕様書、工事入札要領の作成までやった。
田中は、自分に厳しく言い聞かせていた。
〈社長でございといって、椅子にふんぞり返ってちゃあ、社員は動きはしめえ。人を動かそうと思ったら、一番に自分が働くことだ〉
仕事が終わると、田中は、前もって買ってきておいたヤミ酒を、みんなと車座になって飲んだ。
分け隔てのない経営者であった。みんな一緒に燃えてくれた。仕事は忙しく、協力者も日曜も祭日もなかったが、愚痴のひとつも言わなかった。
田中の収入は、500円を超える月もあった。もし彼が建築事務所に正式に雇われていれば、月給35円から45円にすぎない。
田中は嬉しかった。
〈俺は、人の10倍燃えてみせる!〉
田中は、37年11月なかば、理研に呼ばれ、まるまる工場ひとつ分の設計図と仕様書を作るという大口の注文を受けた。
「喜んで、やらせていただきます」
その日から、毎日のように徹夜の連続であった。
12月28日午前11時、理研本社で田中は、1600円もの設計料の内払いとして、1000円を超す小切手を受け取った。
田中角栄は、39年(昭和14年)3月、徴集兵として盛岡騎兵第三旅団第二十四連隊第一中隊に入隊した。
さらに北満州の富錦に赴任するが、クルップ性肺炎で倒れ、病院を転々とし、41年(昭和16年)10月5日、除隊となり帰郷。