田中角栄 日本が酔いしれた親分力(5)法案成立のため敵の懐にも足を運び (2/2ページ)
「最終的には、国土計画が大蔵省の一方的な考えでやられることが多い!」
さらに局面が困難になると、大蔵省に自ら乗りこんでいき、若手実務家たち一人ひとりをつかまえて、説得にあたった。
「君たち、日本再建の基礎は道路だ。頼むぞ!」
各個撃破も功を奏し、大蔵省も内側から燃えあがっていった。
田中は当時、建設大臣であった佐藤栄作にも頼みこんだ。吉田学校の先輩である佐藤栄作は、大きな眼をぎらりと光らせ、
「わかった。君のために、ひと肌脱ごう」
と力を貸してくれた。
ついに、ガソリン税法は、53年7月、参議院本会議で可決され、同月23日公布となった。
大蔵省側のメンバーは、戦後初めて立法府に敗れて歯ぎしりした。
〈田中め‥‥〉
田中は、喜びに燃えていた。
〈誰も鈴をつけなかった大蔵省に、ついに鈴をつけたぞ〉
52年6月6日に公布となった有料道路法とあわせて、田中が作った道路三法が、その後の日本経済の発展に大きく貢献したことは言うまでもない。
後年、田中は、「自らの手で立法することにより、政治や政策の方向を示すことこそ政治家本来の機能である」と語っている。田中自身が行った議員立法は33件であるが、メインで動かずとも、何らかの形で関わった法案まで含めれば、その数はもっと多くなるだろう。
62年(昭和37年)7月18日、池田勇人内閣の改造が行われた。田中は、岸信介第1次改造内閣の郵政大臣を経て、史上最年少(44歳)の大蔵大臣となる。 初登庁の日、大蔵省3階の大講堂の壇に上がった。田中は大蔵省の課長以上が勢ぞろいして見上げる視線を浴びながら、闘志を剥き出していた。
〈こいつらに負けてなるものか。こいつらを今にねじ伏せてやる!〉
大蔵官僚たちが、自分を非難していることは、親しい新聞記者を通じて耳に入っていた。
「大蔵大臣になるのに、4つのふさわしい条件というものがある。『副総理級であること』『財政金融について経験知識を持つこと』『ある程度の年配であること』『各省、党の要求に対してノーと言えること』今度の田中は、その4つの条件のすべてを欠いているじゃないか。ひどい大臣がくるものだぜ」
初訓示の出来、不出来は、省幹部の大臣評価の目処になる。が、田中は居丈高になることなく実に開けっぴろげで、自然に訓示を始めた。
「私はごらんのとおりの無学です。幸い、みなさんは天下の秀才ばかりである。せいぜい私も勉強をさせてもらうが、みなさんは思い切って仕事をしてください。責任はすべて私が持ちます」
作家:大下英治