なぜ中東では争いが絶えないのか?中東に関する10の歴史的事実
中東はインド以西のアフガニスタンを除く西アジアとアフリカ北東部の地域の総称である。常に争いの火種がくすぶっていて、巨大な混沌に覆われているイメージがあるが、どうしてこれほどまでに収拾がつかなくなってしまったのだろう?
かつて、寛容と知恵と学識で誉れ高かった中東が、なぜ残虐と暴力とカオスで悪名高い場所になってしまったのだろうか?
それを解き明かすには、この地域の歴史をひもとく必要がある。海外サイトにて中東に関する歴史的事実がまとめられていたので見ていくことにしよう。
■ 10. スンニ派とシーア派の分裂

西暦632年は、イスラム世界にとってバラ色の年だったに違いない。追放されていた教団がメッカ入りし、アラビア半島を統一したのだ。神アッラーの名を掲げ、強大な力をもつムハンマド率いるこの宗派は、新たな支配の地を手に入れた。
しかし、ムハンマドは後継者を決めないまま死んだ。
これがすべての地獄の始まりとなった。
征服と宗派の確立に全力で取り組んでいたムハンマドは男児に恵まれなかった。つまり、正式な後継者がはっきりしないということだ。ムハンマドの信奉者の多くは、義理の父のアブー・バクルが最初のカリフ(イスラム共同体、イスラム国家の指導者、最高権威者の称号)になるべきと考えたが、ほかの少数グループは、ムハンマドの従兄弟のアリ・イブン・アビ・タリブがなるべきと考えた。
この意見の食い違いが宗派の分裂を生み、以来ずっとスンニ派(アブー派)とシーア派(アリ派)に分かれた争いがこの地につきまとっている。
■ 9. スンニ派とシーア派の何世紀にもわたる不和

そうはいっても、ふたつの宗派は最初はなんとかうまくやっていた。スンニ派のカリフが3人出た後、4番目のカリフはシーア派のアリがなることで意見が一致していて、みんながうまく幸せにやっていた。
アリが死ぬとその息子が後を継いだが、シーア派のカリフはアリひとりという約束だったので、スンニ派はその息子を無理やり退陣させた。この事件が、その後1400年にわたる争乱の歴史の口火を切ることになる。
アリの息子をカリフから引きずり降ろされたシーア派は独自の階級を作り、カリフより上のイマーム(最高指導者)という階級を作り上げた。イマームはアリの血統だけしか認めなかった。
ふたつのシステムがかろうじて共存することもあったが、そうでないときはシーア派が迫害された。16世紀、オスマントルコが4万人のシーア派を虐殺し、のちのインドのムガール帝国の皇帝たちは、シーア派の学者を生きたまま火あぶりにした。さらに時代は下り、英国の植民地主義者たちがスンニ派の民兵を雇って、イラクでのシーア派の反乱を抑え込んだ。
当然のことながら、シーア派の積年の恨みは鬱積し、歴史が示しているとおり、その怨嗟が次々と爆発する傾向にある。
■ 8. 悪魔と取り引きしたサウジアラビア

スンニ派・シーア派問題が渦巻いている一方で、18世紀のイスラム改革運動の先駆者イブン・アブドゥル・ワッハーブの行動が常軌を逸するようになった。
当時、スンニ派は偶像崇拝禁止のような、禁止行動事項の膨大なリストを持っていた(シーア派は偶像崇拝には寛容)。ワッハーブは、こうした規範をもっと厳しくするべきと考え、破った者は背教者とみなした。つまり、コーランは背教者の殺害を許可しているという解釈をしたのだ。
ワッハーブの考えはスンニ派の間で広まり、サウジ王室(スンニ派)はワッハーブ伝道者たちと同盟を結ぶことにした。まだ産声をあげたばかりのサウジ王室を承認してもらう見返りに、潤沢な資金を提供して、ワッハーブ派を後押しすることを約束した。
この契約が功を奏し、サウジ王室は、強大なサウジアラビアの支配者になることができた。しかし、これはまた、サウジ王室が危険で超保守的なイデオロギー地獄にはまっていく結果になった。彼らがこの同盟にがんじがらめになり始めるのは時間の問題だった。
■ 7. 第一次世界大戦後に引かれた地図上の境界線

何世紀もの間、スンニ派主流のオスマン帝国は中東の野獣だった。カリフの位の継続という流儀をまねた強大な力で、中東をまとめあげた。
そこに第一次世界大戦が始まった。
この戦争はヨーロッパにとってかなりの打撃だったが、オスマントルコにとっても災禍そのものだった。この戦争が原因で、オスマン帝国はひと晩にして消滅してしまったのだ。連合軍のパワーが中東を分割し、地図上に新たな線引きがなされ、トルコ支配の騒乱から、シリア、イラク、その他の新たな近代国家がおこった。
問題は、これらの新興国家が相いれない人たちで構成されていたことだ。シーア派とスンニ派はいっしょくたにされて、ただ仲良くやるように言われ、クルド人、キリスト教徒、ヤジディ族、その他の人種が各国に広く浅く混在していた。本質的に、多民族がひしめくミニユーゴスラビアがたくさんできたような状態になってしまったのだ。だがユーゴスラビアと同様、好景気が続き民族間の緊張がない時に限り、うまく機能していた。
■ 6. CIAの介入を受けるイラン

こうした情勢の中、最後の役者が出番を待っていた。1941年、ヒトラーびいきのイラン国王が連合軍によって退位させられたのだ。これにより、束の間の民主主義との蜜月が起こり、結局これが民族間のさらなる緊張へと続いていくことになった。
連合国側にとっては、イラン国民が民主主義を試そうとしているのを見るのは喜ばしいことだったが、彼らが民主主義的に選んだ人物は気に入らなかった。
モハンマド・モサッデクは、親民主主義、反イスラムの俗人だったが、たまたまマルクス主義者だった。モサッデクはイギリスとつながるアングロ・ペルシャ系石油会社を国有化した。イギリスがアメリカに泣きつくと、アメリカは策を弄してモサッデクを排除し、国王の息子(パーレビ)を後釜にすえた。
しかし、新王は父親と同じような堕落した独裁者だった。民主主義は弾圧にすぎないと気づいたイラン国民は別の方法で革命を断行しようとした。そこで駆り出したのが、地位を追われていたシーア派の強硬路線派伝道者(ホメイニ)だった。
■ 5. サウジアラビアの内部紛争

サウジ王室は危うい均衡の上に立っていた。1970年代、ワッハーブ派はますます過激な思想に傾いていた。そのアンチシーア派、ジハード好きのイデオロギーは、中東じゅうの不満分子たちを惹きつけ、スンニ派対シーア派の緊張を逆なでした。ここから、アルカーイダが台頭することになる。
残念ながら、サウジは国内の緊張のほうが心配で、暴走しつつあるワッハーブ派の支援を打ち切ることができなかった。聖職者たちは、特に革命を煽るわけでもなく、サウジ王室はただ黙って毒のあるワッハーブ派に金を出し続け、その考えが大衆に浸透していくのを手をこまねいて見ているしかなかった。
中国の拷問、水責めのように、少しずつ徐々に憎悪を煽るようなやり方がゆっくりと効力を発揮し始めた。サウジ王室は、文字通り莫大な金を費やして超過激なイスラム原理主義をレバノン、ヨルダン、シリア、バーレーンのスンニ派に押しつけた。ここにきて急に、スンニ派とシーア派は、大きな不信感をもって互いを見るようになった。
■ 4. イラン革命

1978年1月7日、小さな流れが大きな川に流れ込み、怒涛のようなうねりになる瞬間がやってきた。イラン革命の始まりだった。この革命で国王(パーレビ)は逃亡し、アーヤトッラー・ホメイニがその後を引き継いで、強硬路線のシーア派神権政治を樹立した。これに慌てたのがスンニ派のサウジアラビアだ。
この革命は、サウジの存在そのものを脅かした。ホメイニは世襲制はイスラムの教えに反するとあからさまに主張して、革命後のイランがすべてのイスラム教徒を象徴すると宣言した。7世紀に端を発したスンニ派とシーア派の正統性の問題が再び浮上してきた。
それから何十年も、サウジとイランは自分たちのルールを正当化するために、この問題をわざと持ち出してきた。サウジはワッハーブ派にさらに資金を提供して、シーア派の邪悪さをふれまわった。イランはイランで、スンニ派サウジの支配に対して蜂起するよう、シーア派を煽った。それぞれの介入が、緊張をますますヒートアップさせ、爆発寸前に追いやることになった。
■ 3. イラクの災難

イランとサウジが張り合っている中で、その争いに歯止めをかけるジョーカーがひとつだけあった。両国とも、サダム・フセインを実質的な脅威と考えていた。
このイラクの独裁者の激しい気性と絶対的独裁政治があらゆる人間を震え上がらせていたからだ。皮肉にも、その恐怖のおかげで、この地域の安定をかろうじて保つことができる理性が多少は働いたといえよう。獰猛な犬と一緒に檻に入れられたふたりのファイターのように、どちらも自分から先に動いて噛みつかれる危険を冒したくなかったのだ。
しかし、2003年が近づいた頃、米国がその猛犬に攻撃をしかけた。サダムの死で、イランとサウジのパワーゲームの最後の歯止めが取り除かれてしまった。さらに悪いことに、この二大国がイラクの政権空白状態を穴埋めしようとするのを助長した。
サウジは、サダムに排斥されたスンニ派を擁護して、彼らを新たなシーア派政府に対して武装させた。一方、イランは、イラクの新しいシーア派指導者たちを支援して、長年支配されていたスンニ派に対抗する血で血を洗う殺し合いに突入していった。こうしたカオスの中で得をしたのは、イラクのスンニ派ジハード戦士アルカーイダだった。彼らはその後、ISというあまりに有名な別の名前で呼ばれるようになる。
■ 2. パワーゲーム

サダムとイラクの足枷がなくなり、イランとサウジは権力闘争を劇化し始めた。レバノン、バーレーン、イエメンも、それぞれ支持しているのシーア派、スンニ派の味方について互いに反目するようになった。そのプロパガンダはモスクやテレビを通して、戦闘のないほかのイスラム国へも流出し、またしても、スンニ派とシーア派の分裂という昔の争いが、中東情勢の最前面に出てくるようになった。
新たな分派の闘争が中東全体で勃発し、どちらの側にもつかない地域のスンニ派やシーア派にとって厳しい時代となっていった。同様にして、イギリスでもアイルランドの問題がプロテスタントとカトリックの抗争に油を注いでいた。こうした争いは、昔の宗派分裂抗争を増幅させ、生死にかかわる問題となっていった。
アラブの春が起こったとき、独裁者が倒れ、戦闘が勃発し、古い観念が崩れた。それでもイランやサウジは新しいリーダーが現われるのを阻止しようとした。こうした両国のあがきが、ついにシリアで頂点に達した。
■ 1. 地獄へ向かうシリア

2011年には、昔からの宗派争いは重大な局面に追い込まれていた。ジハード戦士は最終戦争に備え始め、サウジ・イランは致命的なチキンレースに突入して、すべてを破壊することさえ辞さない構えだった。そして、シリアが内部崩壊した。
すべてはここにつながっていたかのようだった。サウジはこれを親イランのシーア派独裁者アサドをつぶすチャンスと見た。イランは、すぐ目の前でサウジにスンニ派の隷属国を確立させるわけにはいかないと感じた。アサドが自国民に毒ガスを使っても、西側諸国が静観していたため、多くのスンニ派はアメリカやヨーロッパはシーア派イランを支持していると確信した。
長年、世紀末的なワッハーブ派の教えを吹き込まれていたため、スンニ派はすぐに集結して、ISのような力をもつ集団になった。
結果的に中東地域は、党派同盟の混乱、危険な権力闘争、二大国が安易に古臭い分派思想を利用して自分たちのシナリオを押しつけるという混迷状態に陥り、以前よりもさらにバラバラになってしまった。混乱がおさまり、勝者がはっきりするまで、中東の混迷はまだまだ続きそうだ。
via:10 Historic Reasons The Middle East Is So Screwed Up
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