アサヒ芸能「スクープ大事件史」Vol.7(5)連合赤軍の山岳ベースは“リンチ地獄”と化していた (2/2ページ)
- タグ:
-
連合赤軍リンチ殺人事件
-
永田洋子
-
森恒夫
-
あさま山荘事件
-
殺人事件
引きずり出してやろうか」(中略)
永田は夫婦仲のよかった山本順一(28)、保子(28)のむつまじさにも出目をむいた。
「テメエら、乳くりあうのもいいかげんにしろ。夫婦気取りで革命ができるか」
山本順一は、エビ固めにくくられてぶちのめされ、泣きわめきながらのたうち、舌を噛んで自殺した〉
革命集団は、警察当局に追い詰められるなかで、いつしかリンチを事とする無法者集団に堕していったのである。
連合赤軍のメンバーたちの供述調書に基づいた72年11月2日号の記事は、以上のようなリンチ(総括)について、こう述べている。
〈「総括」という名の人民裁判が行なわれるのは、必ずといってよいぐらい真夜中だった。
銃器を管理している幹部の部屋に突然呼び出し、いっさいの反論も許さず、一方的に追及するのがつねだった。
そのあとは決まって「兵士」の意識を強めるため」と、同志に対するリンチが幹部から強要された。
こうしてわずか1カ月のあいだに、12名の同志が総括で死んでいったわけである〉
もっとも、“革命”という時代遅れの夢に憑(つ)かれた彼らは「同志」を惨殺したことを全面的に自己批判したわけではなかった。右の記事は次のように、彼らの声を伝えている。
〈12人もの同志を殺害したことは、単なる殺人鬼の行動ではない。共に闘おうという意識が強かったため、革命の達成を急ぎすぎ、銃による党建設をはたそうとしたための誤りだ。山を逃げ出すものがあるのではないかという不安が支配していたため、12人もの同志を殺してしまった。
もう一度くり返すが、この事実を(中略)異常者の単なる犯行にしてはならないと思う〉
閉ざされた世界はそうした心理を生みやすいとしても、しかし、そうした声は一般社会に受け入れられるものではなかった。それによって、新左翼運動を好意的に見ていた一部の人間も一気に彼らから離れていった。
ただし、このリンチ事件で“革命ごっこ”の動きがすべて潰えたわけではなかった。74年8月30日には東アジア反日武装戦線「狼」による三菱重工ビル爆破事件が起き、8人が死亡。75年3月には中核派の最高指導者・本多延嘉(ほんだのぶよし)が就寝中、マサカリで頭をかち割られるという凄惨な内ゲバも起きている。
ちなみに、連合赤軍の森恒夫は73年1月、東京拘置所で首吊り自殺。永田洋子は死刑囚として収監されていた東京拘置所で脳腫瘍のために獄中死している(2011年2月)。