人が動く! 人を動かす! 「田中角栄」侠(おとこ)の処世 第59回 (1/2ページ)
政権の崩壊は、田中角栄にとっては意外な方向からやってきた。土地や物価の暴騰による日本列島改造論に対する反発の一方でのスキャンダルの勃発であった。
昭和49年10月10日発売の月刊誌『文藝春秋』11月号が「田中角栄研究〜その金脈と人脈」「淋しき越山会の女王」の2本を特集記事として掲載した。前者は日本列島改造論の裏で田中ファミリー企業が土地転がしなどの不透明などがあるとし、後者は田中の秘書にして愛人だった佐藤昭子の生い立ち、田中との関係過程を記したものだった。とりわけ、世間の耳目を集めたのは前者であった。
すでに発売前にゲラを入手していた田中サイド、田中派内はテンヤワンヤとなった。二階堂進、江﨑真澄ら最高幹部、小渕恵三、橋本龍太郎といった中堅幹部らが次々に田中事務所にやって来、中には「われわれがついているのにこんなことになって申し訳ない…」と、佐藤昭子に頭を下げる者もいた。
10月28日、こうした中で田中はかねて予定されていたオーストラリア、ニュージーランド、ビルマ(現・ミャンマー)の3国外遊に出発した。その直前の25日、田中は幹事長だった二階堂に、最後の窮地脱出を懸けたかのように「帰国したら内閣改造を行う。党内の取りまとめを頼む」と指示する一方、前尾繁三郎衆院議長、河野謙三参院議長に立て続けに会い、胸中の苦しみを訴えた。
ところが、河野がこの会談後に記者団に話したことが、田中の首相辞任を決定的に方向づけた格好になった。河野は、田中が「(決まっていた11月18日のフォード米大統領の訪日は)自分が頼んだことだから、自分が迎えなければならない」と語ったことを胸に、記者団に「総理は元気な様子であったが、現在の政局を深刻に受け止めているのは間違いない。私の見たところ、ハラは固まっているようだ」と話したからたまらなかった。翌10月26日の新聞各紙朝刊は一斉にこの田中・河野会談をトップに掲げ、「首相、辞任表明か」の活字をデカデカと躍らせたのである。これが、最終的に田中の闘志を砕いたということでもあった。
それは、秘書の佐藤昭子に「(3国外遊から帰国したら)衆院を解散するかも知れない。