死体写真は残酷なのか (2/5ページ)
それは、野犬が死体を食っている、「残酷」な写真だったのだ。
ボツになった理由として藤原は、そのグラフ雑誌で3年前に掲載された、ベトナム戦争末期のベトナム兵の無残な死体写真が世間から大きな非難を浴びたことがあったためではないかと推察していた。しかし藤原としては、ベトナム兵の死体とインドの死体とは根本的に異なる。前者は異常(アブノーマル)であり、後者は正常(ノーマル)であると主張する。何故なら「インドは仏教が起こった国だ。仏教を単純に言うなら、『自然主義』である。『自然主義』とは、万物自然の中にある道徳律に順応した社会生活を送るための方法のことだ。工業国となった日本では、インド的な社会生活が営まれることはないが、インドでは、生きとし生けるものが墓を持たないように、人間も墓を持たない。死ねば焼いて灰を川や海に捨てたり、鳥に食わせたり、時に死体をそのまま川に流してしまう。つまり自然に還すのだ」。藤原にとって、人間の死に対するインド人の態度は実に感動的で美しいものだった。そして死体が野犬に食われているのは、れっきとした「宗教現場」でもあった。それゆえ、野に咲く花を撮影するように、野犬に食われる死体、死体を食う野犬を撮影したのだった。
■ボツにされた死体写真をなんとか世にだそうと考えた藤原
ボツになったその写真を、藤原は何とか野犬のように世に「放そう」と、ずっと考えていた。藤原は過去、自分が撮影した写真にこだわるつもりは全くなく、むしろ「古雑巾」と同じだと捉えていた。そのため、過去のフィルムは埃だらけになってしまったり、時にカビが生えて使い物にならないこともあった。しかしこの写真だけは違った。「人を犬が食っている」という事実があったということは、一向に古くならないどころか、藤原の世界観を構築する、潜在的な「基準」となっていたからだ。
しかも藤原は、この写真に写されたものが必ずしも、日本人の持つ「肌合い」や伝統にそぐわないものではないとも考えていた。それは中世期の仏教絵巻などに、人の屍を食う野犬の絵が描かれていたこと。そして「白骨観」という、屍を何日も観想することで悟りを得ようとする仏教の修行も存在していたためだ。
■ネガティブな要素は一切削除。見て見ぬふり。