死体写真は残酷なのか (1/5ページ)
インターネットの普及によって今日の我々は、血まみれ、そして人の原型をとどめないほどの無残な死体写真を見ようと思えば、いくらでも好きなだけ、見ることができる状況になっている。1981年に創刊され、現在は休刊中の写真週刊誌『FOCUS』(新潮社)に、「死体写真」を掲載した写真家がいた。バブル経済に向かいつつある、高揚した1980年代の日本が「捨て去ろうとしているもの」を写した『東京漂流』などで知られる藤原新也(1944〜)だ。
■旅館を営んでいた藤原の実家
藤原は福岡県・門司(もじ)にあった旅館業の家に生まれた。その旅館は、九州と本州を結ぶ重要な港・門司港の主管道路に面した、古い数寄屋造の大きな建物だった。しかも藤原にとっての「家」、「旅館」は、単なる建物としての「家」、「旅館」を超え、藤原を包み込む「母胎」のような存在だった。それは藤原が、複雑な光と影が日々変化していくこと、多くの見知らぬ人が出入りすること、客が出て行った後、部屋に様々な匂いが漂っていること、季節の変わり目や風の日に、家のほうぼうできしむ音がすることなどに強い愛着を持っていたからだった。それゆえその「母胎」が1960(昭和35)年、彼が16歳の時に、関門海峡トンネル建設に伴う区画整理のために取り壊されることになったのは、実に衝撃的な出来事だったのだ。大きな旅館がショベルカーで壊されているとき、藤原には、「家に宿っていたさまざまな精霊」と思しき、象、鳥、犬、豚、猿、狐、鹿、鼠、ヤモリ、虫の声が『聞こえて』いたという。幾らかの補償金をもらい、両親は別の場所に旅館を開いたが、大きな借金を抱えて倒産。そして一家は九州各地を転々とする羽目となった。
そんな藤原だったが、東京芸術大学油絵科に進学。しかし藤原は「母胎」を喪失した10年後に、東京を含む「日本」と大学を捨て、アジア各国へ旅立つことを決意した。およそ13年のアジア彷徨は藤原にとって、日本列島各地で失われた「アジア」への個人的な恢復だったと、後に振り返っている。
■死体写真を撮った藤原
1973年、藤原はインドのガンジス川で撮影した写真を、当時連載を持っていたグラフ雑誌に掲載しようとした。しかしそれはボツになってしまった。