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死体写真は残酷なのか (5/5ページ)

心に残る家族葬



■死体写真を見た時に一方的に残酷だと決めつけずに文化や慣習、宗教、地域、民族の違いを受け入れられるだろうか

しかしそこで難しいのは、日本国内の清潔で安全な場所で、藤原が撮った「屍を食らう犬」の「残酷な」写真を目にしたときには、「文化の多様性」、「ちっぽけな人間という存在」、「諸行無常」などに深い感銘を受けたとしても、たまたま自分が住む街、電車の中などで出くわしてしまった「インド人」が「自分たちと違う」ことに対して、そのように「寛容」な気持ちでいることができるだろうか。国や地域、民族によって人を差別したことがない、これからもそうだと自負している人ほど、気をつけたほうがいいと、筆者は思う。

昨今の日本は、大晦日の除夜の鐘がうるさい!盆踊りの音楽がうるさい!自分の周りの誰々さんから漂う加齢臭や、たばこの匂いがたまらない!吐きそうだ!というほど、藤原がこの写真を『FOCUS』に掲載した頃からは想像も及ばないほどの、超潔癖社会だ。そうした「空気」の中に在る「自分」は、果たして「差別」などは決してしない、「人の多様性に寛容」かどうか、問い直したほうがいい。

藤原の写真に「撮られたもの」が「自分たちと違うインドのこと」ではなく、「自分」または自分の「身内」のこととして目の前に「在る」としたら、どう感じるのか。野犬に食われる屍は野犬のなすがまま、体をバラバラに引き裂かれ、人としての原型をとどめない無残な状態になる。そして屍を食らう野犬は、それを見つめる我々を一顧だにせず、ひたすら屍をむさぼり食い続ける。それらの厳しい「現実」は、1980年代から今日に至るまで、「優しい」日本人が抱いてきた「自負」や「感動」が何の意味もない、上っ面のキレイゴトでしかないことを、無残で冷酷な形で示してくれるからだ。

参考文献:東京漂流


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