死体写真は残酷なのか (3/5ページ)
しかし、この写真がボツになった1970年代から遡ること10年前、1960年代に始まる、日本人にとって日常的環境となったコマーシャリズムによって、「野犬に食われる人」のような「死」の「残酷」さ、無駄なもの、汚物・異物を隠蔽するようになっていったと藤原は考察した。
1960年代のコマーシャルは、大衆の「モノ」への欲望に対応した商品連呼型だった。70年代になると、人間の疎外が浮き彫りにされ、人間関係にシラケと寂しさが覆い始めると、「愛とふれあい」「優しさ」希求型が基調となった。そして80年代になると、「文化」を語り始めた。
コマーシャルが描き出そうとしている世界では一貫して、人間とその生活のネガティブな要素は一切削除される。人の喜びの表現はあっても、怒りの表現はまず、削除される。そしてまた愉楽の表現はあっても、哀しみの表現はない。怒りや哀しみが排除されているわけなので、それらよりももっと激烈な死や狂気が描き出されるはずがない。
■人生は楽しいことや嬉しいことばかりではない
確かに、人間は誰しも喜び、楽しくやっていきたい。しかし喜びと楽しさだけが存在し、怒りと哀しみの欠落した人間は、自分がいる世界の他方の極を見つめる五感が退化しているという点において、ある意味「偏って」いることになる。そうした人間は、喜びと楽しみのみならず、怒りと哀しみを有した人間の全体像を把握する能力を失い、コマーシャライズされうる価値以外の価値に対する理解を欠落させていき、やがて喜びや楽しみ以外の「不可解なもの」に敵意を持ち始め、それを抹殺しようとするかもしれない。しかもこのようにコマーシャルのイメージバリューに自らを模倣させていった人々は、80年代、さらに次の年代においても、大衆の覚醒がない限り、模倣され続けるだろうと、藤原は強い危惧の念を抱いた。それはその当時、小学生の女の子が、「人間くさいという、その人間の匂いとは、どのような匂いですか?」と真剣に質問を投げかけていたこと。