「文学的失語」に見舞われた芥川賞作家 6年ぶりの新作を語る(1) (3/6ページ)

新刊JP

それで、一人ぼっちの人間が、言葉を話さない生活を送りながらも、いつか目の前に自分が話すべき言葉が出現するんじゃないかと何とはなしに待っているという話を書こうとしました。つまり、その時の自分の状態を素直に書くことが、自分の取り戻し方だろうと考えたわけです。

それが先ほどの「無声抄」の筋立てなのですが、それを何とか書くことができたことで、文体というものがまだ自分に残っていたんだということを二次的にではあれ確かめることができました。

僕はデビューから「文学の不可能」や「言葉の不可能」を小説内で考え抜くというのを自分で宿命としてきたところがあります。その意味でも、「無声抄」で「書けないこと」をモチーフに書けたことは、僕にとって再起への自信になったんです。

――この作品集には、今お話に出た「無声抄」をはじめ六編の作品が収められています。どの作品にも「声」や「音」、「耳」といった聴覚を連想させるワードが散りばめられていますが、これは諏訪さんが経験した「文学的失語」とも関係があるのでしょうか。

諏訪:大いにあると思います。文学には、文字という視覚的な面と、声や音という聴覚的な面があります。

小説は一般的に、視覚的な側面をこだわって使いながら読者に何かを訴えかけていくのだと思いますが、自分にとっては聴覚的な側面、それは文字、いや「意味」に抑圧された野生の声の魔術的な力とでもいうものですが、それが文章の平板さを突き上げ、揺るがす気がするんです。特にこの作品集を書き始めた頃の自分には「声の力」あるいは「謡いの力」が重要でした。具体的にいえば、文体や呼吸、その韻律の命じるまま従おうということです。

いま指摘された点というのは、実は書いている時は自覚していなくて、気がつけばそういう話になっていたのですが、無意識に声だとか音だとか、耳で聞くということが自分の課題なんだなということを感じていたのかもしれません。

――思えばデビュー作の『アサッテの人』から、一貫して諏訪さんは文学の聴覚的な面に光を当ててきました。

諏訪:本当にそうなってしまっていますね。だから、この作品でそういう自分に戻ってこられたのかなという気はしています。

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