「文学的失語」に見舞われた芥川賞作家 6年ぶりの新作を語る(1) (4/6ページ)
ただ、デビュー作を書いた20代後半の頃は、音や聴覚にこだわりながらも、それらの概念だけを捕まえて、理性や理知によって思弁的に語って征服してやろうという「驕り」がありました。つまり、音や聴覚を「頭」で書いていたようなきらいがあります。『アサッテの人』は、そういうタイプの語り手「私」に、登場人物の「おじさん」が作中から抵抗して「そうじゃない。大事なのは音そのものなんだよ」と訴えてくる話でした。
次に書いた『りすん』もやはり「文字」が「声」から抵抗される話ですが、まだつたない。その次の『領土』でようやく自分が「おじさん」の立場にくることができたと思いました。音や音楽のことを小説の中で考えるのではなくて、小説そのもので音を奏でるという「実践」の方に行けた。今回の六編も、自分にとっては確固たる「実践」になりました。
――しかし、「音」や「耳」といったイメージは通底していても、それぞれの作品の風合いはまったく異なります。作品集に統一感が出るのを意識的に避けているようにも思えました。諏訪:あるコンセプトで統一するのが短編集だとは思うのですが、少なくともここ数年の自分にはそれができなかったんです。あとがきで「乱数的」という言葉を使って、あえてバラバラに、それぞれの作品が等距離に散らばるようにしたということを書いたのですが、苦し紛れの部分も正直あります(笑)。
――確かに美しい「散らばり方」です。文体にしても各作品でまるで違います。諏訪:そう言っていただけると嬉しいです。文体については、自分の中にあるものというよりは、そのとき読んでいたものに影響されたところもあります。
たとえば、「修那羅(しょなら)」という作品を書いていた時は、昔から好きな幸田露伴と泉鏡花を読んでいたので、なんとはなしに擬古文調を踏んだような文体になっています。もちろん、完全に踏襲しているわけではなく、自分の呼吸や歩幅で書いているので、味わいはけっこう異なっているかもしれません。