デイゴの花よ咲け。銘苅信吾、「沖縄のラグビーを日本一へ」。 (2/4ページ)
「そのとき、この子たちを中学、高校でも指導できたら全国を獲れる(日本一になれる)ぞ、と思ったんです」。
ラグビースクールでの指導を通して知った。子どもたちは全員が何かしら長所を持っている。大人たちが思っている以上に秘める可能性は大きい。
「6年間指導できたからこその結果でした。もちろん失敗もありました。ただ、それだけの時間があったから、中期、長期のプランで考えることができた。その時々に子どもたちに必要なことをやれました。(1年区切りとか、各大会ごとに結果を求めるなど)期限が決まっていたら、過剰(なコーチング)になってしまうところを、じっくりやれました」
その経験を活かして名護でラグビー好きの子どもたちを増やしたい。そして一人ひとりの力をゆっくりと、着実に積み上げてあげたい。
「簡単なことから難しいことへ、段階を踏んで中3までデイゴでラグビーを続けた子どもたちは、ここまでできる。そういう前提があれば高校3年間の取り組み方も変わる。やるべきことも決まると思う」
12年後は、この春の小学1年生が高校3年生になる年だ。頭の中にある理念とシステムがあるラグビースクールで育った子どもたちなら日本一になれる。
そして、そういう子どもたちを育てるスクールが長く沖縄ラグビーの発展を支えてくれたらいい。
銘苅さんはワセダクラブで、子どもたちから多くのことを教わった。
3年前の山梨・河口湖での夏合宿の光景が忘れられない。6年間指導した子どもたちが5年生の時だ。6年生チームへのチャレンジマッチを実施した日だった。
Aチーム、Bチームの2試合がおこなわれた。体格差もあって例年は6年生が大勝することが多い。その年の5年生Aチームは頑張って僅差で負けた。しかしみんな悔しくて、ボロボロ泣いた。
そんなときだった。最初に動いたのは清宮福太郎だ。涙をこらえてBチームの円陣に近づき、6年生はこうしてくる、ああしてくると伝え、こうやればいいとアドバイスをおくった。他の選手たちも続いた。
コーチに言われるわけでなく自発的な行動だった。そしてBチームは普段以上の力を出して6年生に勝った。
みんな泣いて喜んだ。