天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 村山富市・ヨシヱ夫人(上) (1/2ページ)
少数与党の「非自民」政権の羽田孜首相が退陣したことで、後継は比較第1党の自民党総裁の河野洋平というのが一般的見方だったが、自民党内に動きが出た。それまでの自民党政権が資本主義の強固な論理に突っ走り、物質文明に傾斜していたことに反発のあった後藤田正晴、野中広務、亀井静香らいわゆるハト派が策動、武村正義率いる新党さきがけ、そして社会党を巻き込んでの連立政権を樹立させてしまった。
この「自社さ」連立政権は、ナント社会党の村山富市を首班に担ぎ上げ、世間をアッと言わせたものであった。昭和30年(1955年)以来、「55年体制」と言われて長く続いた自民党と社会党の対立関係は、事実上ここで終止符を打つことになった。その後、社会党は社民党と名を変えたが、かつての支持基盤は離れ、いまやその存立は“風前の灯”となっていることは読者ご案内の通りである。
さて、その村山と妻・ヨシヱは、昭和28年(1953年)、村山が大分県・大分市議選に初出馬した際に出会い、票を頼みに来た村山が病院勤めのヨシヱを見染めたことがきっかけで結婚した。
村山は、14歳で漁師だった父親を亡くしている。生活は楽でなく、小学生の頃から父親の手伝いで漁に出ていた。その後、苦学をしながら明治大学専門部を卒業した。この明大で民主化運動に足を突っ込み、これが縁で社会党に入党することになった。大分市議選に引っ張り出されたのは、この社会党の青年部長時代である。当時を知る大分の地元記者の証言が残っている。
「当地では社会党の右派が強く、左派から誰でもいいから出せという声が上がり、結局、若い村山が担ぎ出された。この選挙で、村山は『どうせ通らんから』と、自分のカネはビタ一文使わずボランティアだけで戦った。落選でした」
4年後の市議選で初当選を果たしたが、ここからヨシヱ夫人の“凄さ”が全開されることになる。ヨシヱは当選を機に病院を辞め、なんと大分県庁の職員食堂の経営に転じたのである。前出・大分の地元記者が続ける。
「夫人は、地元ではとにかく我慢強い働き者で通っていた。毎朝4時起き、モンペにゴムのエプロン、長靴スタイルで卸売市場に仕入れに行くんです。食堂では、一人で1日1000枚の天ぷらを揚げたこともあったそうです。