雨宮処凛の『90年代サブカルと「#MeToo」の間の深い溝。の巻』を読んで:ロマン優光連載110 (3/5ページ)
本来そこに触れるべきでない人が触れてしまったというか。趣味として、それに対峙し、理解できることができる人間なら取捨選択をしていくはずなのです。AVでもブームというのは本来それに触れるべきではない人、資質として対峙する能力に欠ける人が触れてしまうものですが、そういう例なのだと思います。作品ではなく場が彼女には必要であり、場が大事だからこそAVの不快な表現、それに対する不快な言動に何も言えなくなってしまったということでしょう。私はどちらかというと、そういう人たちにバカにされる「そういう奴ら」に属していましたから、鬼畜系と言われるものに属する作品は好きでしたが、プラスワン界隈のはしゃぎっぷりは不快だったのを思いだします。
サブカルだけを断罪するのはフェアではない 村崎氏の文章を「社会への呪詛が匂い立つよう」と表現する部分にも違和感があります。確かに氏はゴミ漁りという反社会的行為のレポートから出てきたわけですが、氏の文章は社会に対する挑発的・挑戦的な文言はあっても、基本的に詩的であり、インテリジェンスと他者に対する優しさが滲み出ていて、そんなオドロオドロしいものは最初からなかったように思います。学生時代に友人であるDisgusteensというバンドのドラムをやることになる柳生くんと「基本的に村崎さんって優しいよね」という話を二人でしたのを思いだします。村崎氏は社会に対するオルタナティブな視点を露悪的な言葉で表現していても優しさが滲みでる人であったのです。
90年代の人権意識というのは、社会全般として恐ろしいくらいに低いものでした。当然ながら、90年代サブカルチャーもその時代の意識から自由ではなく、鬼畜系に限らず、今考えると非常に人権意識が低いわけで、それを「サブカル」の内包する問題点としてしまうのにも違和感があります。それはサブカル無罪というのではなく、社会全般・時代全般で捉えないとフェアでないという話です。30年前の『ディープ・コリア』を指してヘイト本だと言うのはフェアではないし、愚かしいというのと同じですね。まあ、今の感覚で捉えるとサブカル有罪どころか社会全般が全部有罪な気はしますが、それについてすべきなのは糾弾ではなく考察だと思います。