雨宮処凛の『90年代サブカルと「#MeToo」の間の深い溝。の巻』を読んで:ロマン優光連載110 (2/5ページ)
それに近接して悪趣味なジャンル・ムービー、漫画といったもの対する再評価という流れもあったわけです。細かく言うと、鬼畜系と言われてるものの指し示す範囲は曖昧であり、悪趣味系と言うべきものの一部を指す言葉である鬼畜系というものが、悪趣味系全体を指すようになってしまったのだと思います。個人的には全てが好きだったわけではないですが、好きなものもありましたし、影響も受けました。
90年代、綺麗なもの・清潔なもの・オシャレなものといった幻想の「普通」しか存在を許さない、それ以外のものは存在しないことにしていく、抹消していくという一般的な風潮がありました。それに対するカウンターが根本敬氏や村崎百郎氏の著作であり、世界は別にそんな形をしていない、汚かろうが狂っていようがバカだろうが色々な人間は現に存在する、どんなに否定してもそういうものはなくならない、人間とはそういうものであり全ての人間の中にそういう部分は存在する、そういった認識を読者に与える役割を本来は果たしていたはずなのです。
「普通」しか許されない社会に対するカウンターとしてのそれは、人間全てが糞であるという認識の元による平等性、多様性の容認に繋がるものを内包していたのです。そこに登場する人物を認め、そこに何があるのかを受け手は考えていくべきだったのだと私は思っています。しかし、結局は「そういう変なやつらをバカにして笑おう」「自分のゲスな欲望は何よりも尊重されるべき」「そういう変な奴らを利用して金をもうけよう」みたいな人間たちによって終わってしまったのです。
雨宮さんの書いている「より鬼畜の方が偉い」という価値観はあくまで雨宮さんをはじめとする受け手やイベント界隈の作った勝手な価値観であり、本来はそういうものではなかったのだと思います。それはフォロワーたちによる卑小な解釈であり、ロフトプラスワンのイベントに集まっていた勘違いした連中が調子にのっていった結果でしかなく、本来のものとは関係のないものだと私は感じてしまいます。その後の雨宮さんの活動などを踏まえて考えるに、彼女は自分の存在が許される場を求めていただけで、文化に対する理解は実はできていなかったように感じてしまいました。だからこそ、同調圧力の中で全てを受け入れようとして苦しんだんだろうなという気がします。