田中角栄「名勝負物語」 第一番 田中真紀子 (2/3ページ)
「それまでの私が知っていた新聞記者という存在は、“田中番”と称するグループが、夜うち朝がけで日参し、とぐろを巻いては酒をくみ交わし、父とのコンニャク問答の後で、時として放歌高吟することを仕事としていた。ところが、(Iは)異国の地にあって、数少ない特派員として社命を担い、他の諸外国の特派員と伍して仕事をしている。I氏の姿は、孤独な兵士にも似て、比類なき美しさに満ちていた」
“絶賛”である。Iは真紀子を食事に招いたり、美術館に連れて行ってくれたりした。
★往復ビンタのうえの女優志願
同著には、こんな言葉も出てくる。
「(食事の最中に)サラリとこんな言葉を口にした。『僕は、まっちゃん(真紀子)にとって、どんな存在なんだろう!』。思いもかけぬ問いかけと、眼差しに、私は一瞬、地球が止まったのではないかと疑った」
しかし、この初恋はやがて青春の思い出として遠のいていく。事の経緯を知らぬ田中にとっては、まずは安心の真紀子のアメリカ留学であったことになる。
一方、真紀子が帰国し、ホッとしたのも束の間、田中は新たな真紀子の“挑戦”を受け止めねばならなかった。日本女子大学に入学し、良妻賢母たる花嫁修業を願っていたものの、真紀子は男女共学の早稲田大学商学部にさっさと入学してしまったからだ。
アメリカの地で自由な空気を吸い、見聞を新たにした真紀子は、その上で学内のサークル活動としての劇団『こだま』に所属、その一方でプロの女優を目指すため劇団『雲』にも研究生として入団した。『こだま』には、やがて俳優となる村野武範が、のちにTVキャスターと知られる久米宏がいた。
しかし、我を通す真紀子に対し、田中は芸能の道などとんでもないで、猛反対、父娘ゲンカの再来となった。『雲』の競争率50倍の難関を突破した真紀子が、これを事後報告したとき、田中は激怒して往復ビンタをした。また、当時、『雲』の理事を務め、真紀子の入団に一役買った作家の遠藤周作は事前に田中と会ったが、このときも田中はにべもなく「(入団は)断じていかんッ」と首を振ったものだった。ここでも、演劇という社会での男女関係を心配したことにほかならなかった。