田中角栄「名勝負物語」 第一番 田中真紀子 (1/3ページ)
一人娘を良妻賢母の女性として育って欲しいと溺愛、自分の型にはめようとする田中角栄に対し、自我に目覚め始めた思春期の真紀子は、しばしば凄絶と言っていいほどの父娘ゲンカで対立した。
その田中の溺愛ぶりは、牛馬商だった父・角次の血を引いての競馬好きの中にも見られた。田中は代議士になって都合20頭ほどの競走馬の馬主になっていたが、オークスを制したベロナなど数頭のほかは、すべて頭に真紀子の名前を冠しマキノホープ、マキノハナ(注・はな夫人の名も)、マキノヒメ、マキノスズカゼ…としていたことでも分かる。
さて、悪い虫でもつけてきたらたまらんと「絶対ダメだ」と反対した真紀子のアメリカ留学は、真紀子が半年間も一切、田中と口を聞かぬという抵抗のうえで実現した。真紀子16歳、日本女子大学付属高校2年の夏休みが明けたときである。留学先はフィラデルフィアの「ジャーマンタウン・フレンズ・スクール」という高校で、出発する羽田空港で田中はボロボロ涙を流して見送った。そのとき、真紀子に小学生に悟すかのようにこう言った。
「体を大切にな。青い眼のおムコさんなどは連れてきちゃいかんぞ。そして、夏休みには帰ってくること。毎週いっぺんは必ず手紙を書くこと」
手紙は結局、真紀子からはたまにしか来ず、田中のほうが頻繁に長文のそれを出すことが多かった。一方、留学先の真紀子は社会学、経済学の本を愛読、また、もともと得意だった英語力にも磨きをかけた。田中が訪米した折には度々ワシントンに飛び、流暢なそれで通訳兼ホステス役を見事に演じてみせたこともあったのだった。
しかし、こうした“安堵”の一方で、田中の不安が密かに進行していた。真紀子が、恋心を抱く男性と出会っていたからである。
相手は、妻ある身の当時35、36歳、毎日新聞ワシントン特派員のIという学者肌の優秀な記者であった。じつは、この留学の1年ほど前、真紀子は旅行と称して同級の友達と“アメリカ見物”をしていた。時に、自民党幹事長だった田中は面識のあったこのIに連絡を取り、友達ともども宜しくと伝えてあったのだった。まさか、そのIに真紀子が恋心を抱くとは、もとより田中は知る由もなかった。その恋心を真紀子は、のちに自著『時の過ぎゆくままに』(主婦と生活社)で、次のように告白している。