田中角栄「名勝負物語」 第二番 福田赳夫(1) (2/3ページ)

週刊実話

ここで明らかになるのは、死力を尽くしての権力闘争の勝利ではあったが、田中のなかに福田に対する怨念はなかったという点である。

★強烈な学歴コンプレックス
 長く田中の傍らにいて、常に田中の思いを受け止めていた秘書の早坂茂三は、田中の死後、その著で「第1ラウンド」での田中の心境を、“田中の弁”として次のように明らかにしている。
「そりゃたしかに、あのときは福田君と私が総裁の座を争うことにはなった。しかし、これは時の状況がそうさせたんでね、私が好んで争ったわけじゃない。大体、福田君に、私はライバル意識なんぞ持っちゃいないよ。(総裁選まで)様々なことはあったにせよ、私は福田君に怨念はない。福田君も、また同じだったと思う。

 ただね、福田君を取り巻く人たちはあるかも知れない。『田中はオヤジ(福田)より13年も遅く生まれてきたくせに、東大も出ねぇでなんだ』と、そんな気持ちはあるかも知らん。しかし、私や田中派のほうは怨念なんぞは、露、かけらもないよ。私はいますぐ死ぬとも思っていないし、友達(田中派)だって増えている。若い連中は、飯盛山の白虎隊みたいな純粋な気持ちで私と付き合ってくれている。そういう人たちに囲まれているとね、怨念とかいうようなドロドロしたものはなくなるんだ」(「田中角栄回想録」小学館=要約)

 もう一つは、田中と気脈を通じていた元政治部記者の弁である。
「田中から、福田に対する怨念めいた言葉は聞いたことがない。そのうえで、『角福総裁選』に田中をあえて突き動かしたのは、福田に対する強烈な学歴コンプレックスがあったと思われる。一高、東大卒、そのうえ大蔵省のエリート中のエリートという国民の信頼感に対する反発だ。地べたを這いつくばってのし上がってきた田中のなかにあったのは、“負けてたまるか”精神の一点にあったように思われる」

 そしての「第1ラウンド」、「角福総裁選」への突入であった。
 大蔵大臣として大蔵省を手中に収め、5期の幹事長職を務めて自民党内への影響力を確実にしていた田中は、「沖縄返還」を花道として佐藤栄作首相の退陣が確実視された昭和45年(1970年)頃には、陣笠代議士の頃から愛人にして二人三脚で政治活動をともにしてきた秘書の佐藤昭子にこう言っている。

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