跡形遺さない災害による死。そのような死を形に留めておく慰霊碑という存在 (2/5ページ)

心に残る家族葬

天保4(1833)年と6〜7(1835〜36)年の大凶作を頂点として7年にも及び、全国規模で発生した冷害型の不作であった。飢饉による餓死・疫病死に加え、農民たちが自らの土地を捨て去り、諸国に流亡(りゅうぼう)してしまうほどの惨状を呈したという。江戸時代の飢饉といえば、天明の飢饉(1782〜1788)も同様の状況だったが、天保の飢饉の際は、窮状が長期化・蔓延化してしまってはいたが、過去の反省から、幕府や藩による種々の救荒(きゅうこう)対策が取られ、ある一定の効果を得ていたという。例えば、飢饉が始まると、幕府や藩は御救(おすくい)小屋をつくり、施粥(せがゆ)や施金(せきん)を行った。また、商人や豪農の出資を求めて褒賞を与え、各種の御救普請(ふしん。土木工事)を行わせたりもした。更に年貢の減免や金の貸付、囲米(かこいまい。備蓄米のこと)を放出することなどだ。しかしそれでも、農村部には貧農・小作人や耕作地を失った奉公人・日雇層の数は増加した。更に商業地においても、多くの窮民があふれていたという。そうしたことから農村での一揆、富裕層の村役人・米穀商・質屋などに対する打ちこわしや騒動が全国各地で頻発した。天保8(1837)年、大坂(現・大阪市)の与力による大塩平八郎の乱は、こうした状況を象徴する大事件だった。

これらの惨状を受け、幕府は人事・綱紀・経済状況を刷新する天保の改革を行う。それと連動する形で、二宮尊徳(1787〜1856)などの経世家・農政家が提唱した報徳思想の顕彰、救荒書出版などを推奨した。

■水天の碑が建てられた地域の歴史

「水天の碑」がある台村を含む当時の武蔵國高麗(こま)郡高麗郷はもともと、霊亀2(716)年に朝廷によって、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の7ヶ国の高麗人1799人を武蔵國に移して、高麗郡が置かれたとされ、朝鮮半島からの渡来人が多く住んだ地域だった。このような高麗郷は江戸時代には、25ヶ村(後に36村)に分かれていた。これらの村は天領や旗本領となり、天領は関東郡代や代官が分割支配し、大きな旗本は陣屋を所領地内に置いていた。飢饉当時の台村では、囲米は食糧用のものではなく、翌年の農作業に必要な種籾しかなく、麦や雑穀も不足してしまっていた。

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